衰退した地場産業

188 ~191 / 546ページ

 昭和三十三~昭和四十二年までの一〇年間に千葉市域では工場数も、工場分布地域も増大し、内容的には、軽工業から重化学工業へ、零細企業から中堅企業へと変化した。その反面、この間に当地で発生し、発展した産業が消滅、又は衰退していったのである。それは澱粉製造業であり、佃煮・木毛製造業などであった。

 澱粉製造業――昭和十九年、澱粉製造発祥の地稲荷・蘇我両町の澱粉工場は、政府の命令で、五工場を残し、ほかは全部取りこわされた。これが、千葉市における澱粉業衰退の第一の要因であった。戦後、関係者の努力によって再興され、昭和二十六年には、四五工場となり、千葉市食品工業の中心的地位に復活した。昭和三十三年には、従業員一〇人以上の食品工場六四のうち、澱粉工場が一八を占め、工場数で第一位であった。ただ、分布地域は、犢橋町を中心に市域周辺部に移り、稲荷町はわずか一工場であった。それが昭和四十二年には、従業員一〇人以上の食品工場四一のうち、澱粉工場はわずか一となり、千葉市域の澱粉製造業の衰退を如実に示している。同年の澱粉工場は、総数でもわずか一〇となった(六―四九表参照)。

6―49表 昭和42年千葉市の澱粉工場総数と分布
園生加曾利今井蘇我大宮大草7町
212211110工場

(『千葉市工場名鑑』)

放置される澱粉製造施設(稲荷町)

 澱粉業の衰退理由の第二は、原料の甘しょの問題である。市近郊で生産される安く豊富な甘しょが原料であったが、その栽培が昭和三十五年ころから急激に減少し(六―五〇表)、そのため、量的に、また価格的に甘しょが入手難となったのである。甘しょ栽培が急減したのは、ちょうど県内・千葉市において、内陸部への工場進出が盛大化した時期であり、また人口の社会増の時期とも一致するため、工場・住宅用地の増大が、畑地を減少させ、農家の生産意識、生産構造を変化させたため、栽培が減少したのである。

6―50表 甘しょ栽培面積の変遷
昭和11年30年35年40年45年
千葉県ha
22,21524,80322,12316,1006,900
千葉郡ha千葉支庁
4,6132,5022,020587337

(千葉県特産課資料)

 第三は、海外からトウモロコシが安価で輸入され、コーンスターチの生産が増大したためである。戦後最初のコーンスターチ工場は、昭和二十三年愛知県半田市に、三菱の資本で設立された日本食品化工(株)で、日産六〇トンである。当工場の社長は、稲毛に居住していたため、最初千葉県に工場設立をはかったが、当地では、その気運がなく半田に設立した。この工場が口火となって、その後、コーンスターチ生産が増大した。千葉市付近では、市原市八幡海岸通りに、王子コーンスターチ(株)が進出、日産一二〇トンの能力で昭和三十九年五月に操業を開始した。

(イ) 甘しょの歩止まり三〇パーセント前後に対し、とうもろこしは六〇~七〇パーセントである。

(ロ) 甘しょ使用では、工場は季節稼動であるが、設備は年中整えておく必要があり、一方とうもろこしの場合は、年中稼動である。

(ハ) 政府の価格維持政策があっても、甘しょ澱粉の方が割高であり不利である。

 第四は、企業進出に伴い、労働賃金が高騰し、かつ企業内容から労働力を集めにくい。等々の理由により千葉市で発生発展し、千葉市域の製造業の中心的役割りを果たした澱粉製造業は、外来の各種企業の立地発展、人口増大、住宅地化の中にあって、天保五年(一八三四)以来の歴史を持ちながら、ついに、昭和四十四年には、千葉市域から消滅してしまったのである。このかげには、遊休施設をかかえ、跡地の有効な利用や、転業も思うにまかせず、また職を失った者もいるが、これらに対する援助の手はさしのべられていないのが実情である。

 焼蛤・佃煮製造――地先海面から原料を得て発展したこの部門は、昭和十六年から始まった海面埋立によって、原料入手が困難となり、二次補償を受けて廃業していった。この中にあって、昭和八年、登戸地区に創業以来今日まで、この部門の中心として活躍している大阪屋に取材して焼蛤業について概観する。

 以前は地先海面よりの原料を使用したので、焼蛤業は臨海部に立地する必要があったが、現在では、輸入物や、陸の材料と称する移入物が中心となったので、消費地の中心地に立地するものや、水産加工店で製造するものが多くなっている。当大阪屋の原料は、昭和三十八年ころまでは、不足分を鹿島産のもので補いながらも、地元産のものが使用された。その後は韓国産の輸入物が中心となり、更に北鮮物も使用されるようになった。韓国物は、自然発生の蛤で、乱獲で一時あやぶまれたが、のちに、養殖が開始され、昭和四十二年ころから計画的に生産されるようになった。

 北鮮物は、昭和四十四年から輸入されるようになった。北鮮物は輸送が自由ではなく、四~六月、十~十一月に五百トン以上の大型船で公海を通って運ばれる。北鮮物は寒さに強い。朝鮮半島物の輸入は、桑名の業者と共同で行う。四日市からは、保冷車で千葉まで輸送する。一時に多量の原料が入るので、市内の冷凍会社の倉庫で保管する。韓国の場合、養殖場が豊富、輸送が自由なので、不都合なことはなく、労働力も豊富なので、むきから、一回焼きまでの一次加工を韓国で行い、急速冷凍して輸入すれば、味にも影響せず有利である。蛤焼きには、一回は和歌山産の備長炭を使用するが、この木炭は実績がないと入手できない。

 以上のように千葉名物焼蛤は、大阪屋主人の原料入手から加工までのくふう、努力によって、ようやく維持されているのである。

 佃煮製造では、稲荷町で今日まで四七年間製造を続けている坂本佃煮製造所がある。現在、原料の大部分は乾燥物で、北海道産のこおなご・昆布・貝紐・いかである。半生物は、わずかであるが船橋より入る。

 木毛製造――木製品部門で、市内第二の生産額を示すのが、この木毛製造である。以前は市内に一六工場あったが、現在六工場、従業員五〇名である。木毛は生松材を原料にし、用途は九〇パーセントが梱包用、他は人形用である。木毛の市場は東京であり、その立地は、東京――工場――原木産地に自動車で一日行程の距離内が理想とされる。

 現在、原木は各地の木材市場で入手する。木毛製造が衰退した理由は、第一に、石油化学製品、段ボールなどの各種梱包材の発展普及による。第二は、木毛製造には、原木置場、乾燥場を含め、六百平方メートル以上の用地が必要とされ(最近は火力乾燥が普及してはいるが)、都市化の進展が著しいこの地域では、用地の面からも立地が不利となる。第三は、求人難であることなどによる。

 ただ、宅地化、工場用地に伴う山林伐採により、原木が入手しやすくなってはきたが、その反面、将来は原木の絶対量の不足も予想される。現在最も古い工場は、昭和十二年以来、誉田二丁目で製造を続けている大森商店で、東日本木毛工業組合のリーダーでもある。

 以上のほか、住宅地化・工業化の波に押されているものには、せんべい製造業がある。工業化・住宅地化により大気汚染、地価高騰がみられ、生地の天日乾燥用の用地と、清澄な空気を必要とするこの業界は、市街地から郊外へ、また農村部に移動する傾向がある。特に大衆品、大量生産品はその傾向が強く、高級品製造だけが市街地に残ることになる。市街地型の典型として、新宿町で手焼きせんべいを製造する田子作せんべい本舗「たからや」がある。その他、県内では僅少企業の製紙業が市内に小泉製紙(蘇我町)と、千葉製紙(神明町)の二社みられたが、神明町の千葉製紙は、生活水準向上に伴う需要の変化、工場環境の悪化により、昭和四十四年九月工場を閉鎖、本社・工場は市原市八幡地区に移転した。