川鉄増設

191 ~192 / 546ページ

 昭和二十六年六月、同社第一高炉の点火は、消費都市であった千葉市を今日の生産都市へと転化させた第一歩であった。同社は昭和三十三年から酸素製鋼法を採用したが、その平炉などから発生する酸化鉄の赤煙が、周辺民家の屋根、庭木、洗濯物に付着して問題となるなど、公害問題が発生した。

 この間君津地区には、八幡製鉄株式会社(現新日本製鉄)が進出、八九二ヘクタールの用地に、昭和四十年から冷延・厚板工場を稼動し、以後昭和四十三年第一高炉、昭和四十四年第二高炉に火入れをし、粗鋼年産五百万トン体制を確立した。時に従業員約四千名であった。

 一方川鉄は高炉五基、従業員約一万五千人で粗鋼年産六五〇万トンである。戦後、日本最初の新鋭銑鋼一貫工場を建設し、諸施設を合理的に配置し、最も生産性の高い製鉄所として知られた工場であったが、今日の工業技術の進展はめざましく、新日鉄君津工場との比較でわかるとおり、現時点においては、低能率・低生産の老朽化工場となってしまったのである。そこで、設備の新設、更新によって生産増大をはかり、あわせて、住宅地に近接していることからおこる公害を減少させるため、現工場前面海域を埋立て、新工場用地を造成することにし、昭和四十三年三月、県と川鉄は「三三〇ヘクタール埋立年産八五〇万トン体制」の覚書きを取り交し、昭和四十四年から埋立、造成に着手した。その後、経済情勢の変化から、川鉄ではいっそうの増産を必要とし、さきの覚書きを変更「四六二ヘクタール埋立、年産千二百万トン体制」とし、その代わり公害防止にはじゅうぶん配慮するという申し入れを千葉県と千葉市に対して行った。ちょうど時を同じくして、対岸の横浜市に立地する日本鋼管京浜製鉄所の扇島移転計画をめぐる、公害対策が問題となり、横浜市側の強い要求で、昭和四十五年十月「亜硫酸ガスの最大着地濃度〇・〇一二PPM」というきびしい規制で話し合いがまとまった。

 この対岸の情勢や、公害防止に対する世論の高まり、現に公害にむしばまれている実情から千葉県は、「年産八五〇万トン体制を拡大させることは公害源をふやす」として、従来の計画に基づいて公害防止計画をたてるよう川鉄に申し入れ、同社もこれを受け入れた。ここで問題点として残ったのは、新製鉄所に必要な電力四五万キロワットの供給法である。その後、話し合いを重ねた結果、昭和四十五年十二月二十八日、千葉県・千葉市・川鉄の三者間で、「施設整備に関する基本協定書」――主要点(イ)埋立三九六ヘクタール、(ロ)六号高炉並びに関連施設の完成予定は、昭和四十九年度で、六号高炉全面稼動の時点で一号高炉を廃止する。同年の生産規模粗鋼年産八五〇万トン、(ハ)火力発電所は埋立地に建設、(ニ)亜硫酸ガス・粉塵に対する対策――と、「施設整備に関する公害防止協定書」――内容は、(イ)亜硫酸ガス防止対策、(ロ)粉塵防止対策、(ハ)水質汚濁防止対策、(ニ)電力供給方法は新自家発電三七・五万キロワット・既自家発電四万キロワット、買電三・五万キロワットで総計四五万キロワット――をとりかわした。この二つの協定書の内容は細部にわたって規定してあり、これが実行されれば確かに現状より改善されるであろう。

 本質的には、製鉄所が市街地に近接して立地することの是非の問題である。

 なお、市では、川鉄との協定締結前の同年十一月二十五日、市内立地の一〇企業と、公害防止に関する協定を結んだ。