高度経済成長期の商業の動向

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 日本経済は昭和二十五年から経済的に離陸を始めた。昭和三十年ころから戦後初めての好況となり、これを神武景気といった。これは日本史始まって以来の景気であると思って名づけたのである。しかし昭和三十五年ころから景気は更によくなった。人々は神武景気よりよいというので岩戸景気とよんだ。神話によれば、神武天皇以前なら高天原の時代であり、天の岩戸を開いて天照大神があらわれて世界が明るくなったという物語がある。これは日本開闢(かいびゃく)以来の好況であった。その後に昭和四十一、二年に不況のかげりがあったが、四十三年から好況がつづき、どこまでもつづくので、これを高原景気とよんだ。こうして昭和三十年から日本経済は高度経済成長期の幕が開かれ、世界各国から奇蹟の経済と驚嘆されて、二十数年前の敗戦国が国民総生産からみて世界第三位、自由主義国家の中では世界第二位になった。

 千葉市の経済・産業は昭和二十一~二十六年までは戦後の復興期であり、二十六年をもって戦前の水準に回復した。昭和二十五年に川崎製鉄の誘致が決定し、戦前の消費都市から生産都市にきり変わった。昭和二十九年に東京電力火力発電所の誘致が決定し、電力エネルギーの生産都市となった。また千葉港は昭和二十六年から建設を始め、二十九年に開港の指定をうけた。これらの製鉄・電力・港湾の建設などは、千葉市の産業・経済の経済的離陸であった。これらは神武景気のころになって稼動し始めた。川崎製鉄の銑鋼の一貫生産は昭和三十三年からであり、東京電力は昭和三十二年からであり、千葉港は昭和三十二年に重要港湾に昇格した。こうして新しいビジョンとしての京葉臨海工業地帯の造成がまず千葉市に実現されたのであった。

 しかし千葉市の産業・経済にとって、戦災復興ができた昭和二十六年から神武景気の昭和三十年代の前半までは、新しい飛躍的発展への準備期間であった。特に第三次産業の発展はこの準備期間を経過してからあらわれはじめた。千葉市の第三次産業の飛躍的発展には人口の増加が前提であった。人口の増加は川崎製鉄の進出によって始まったが、人口の激増は東京からの工場の進出と東京通勤者の移住が主力であった。いわゆる東京から工場分散と東京人口のドーナツ現象であった。東京から地方への工場分散は神武景気の昭和三十年から岩戸景気、高原景気にかけてあらわれた。東京の工場は約八万、このうちの六〇パーセントが地方に移動したいと考えている。東京の工場地帯を分けて城南区・城北区・城東区とすれば、分散した工場は、所在地と移転先に一定の方向性があった。城南区の工場は神奈川県へ分散し、城北区の工場は埼玉県へ分散し、千葉県には城東区の工場が多く分散した。千葉市に人口の激増をもたらしたのは、東京から分散した工場の従業員の増加が一因である。この進出した工場の受け入れのために、内陸工業団地として、犢橋・千種・長沼などの内陸工業団地を造成したのは昭和三十一年以降の神武景気のころであり、ここに工場が進出したのは昭和三十六年以降の岩戸景気のころが多い。また臨海部の公共埠頭の周辺に埋立地を造成したのは昭和三十八年ころの岩戸景気が終わるころであり、ここに工場などが進出したのは昭和四十年前半の高原景気があらわれたころであった。

 東京人口の千葉市への移住は、戦災復興期から多かったが、昭和三十年の神武景気からの移住の激増は、千葉市人口の増加の主因であった。東京の人口は一千万人をこえる。マンモス都市になると、都心部の人口密度が小さくなり、郊外に移住してそこの人口を増加させた。都心が空洞化して周辺人口が輪になって増加してふくれあがった。この人口分布のようすがお菓子のドーナツに似ているので、人口分布のドーナツ現象という。このドーナツの輪が千葉市にまでひろがってきたのが、昭和三十五年ころからである。このころ東京には全国から年間六〇万人も流入し、年間四〇万人がまわりの各県を主とし、一部は全国に流出した。昭和四十年以降には東京へ五〇万人も流入し、まわりに六〇万人も流出するようになった。東京の人口は初めは東京の西郊である神奈川県や東京都三多摩地方に移住した。つづいて北郊の埼玉県に移住が多くなった。昭和四十年代になると東郊の千葉県に移住が多くなった。この東京の人口の移住に応じて、千葉市に住宅団地が数多く造成されはじめたのは昭和三十年代の後半からであり、大規模住宅団地が続々とあらわれたのも昭和四十年すぎからであった。これらの人口増加の原因が主力となって千葉市の人口は激増した。昭和三十年の千葉市の人口は約二〇万人であったが、一〇年後の昭和四十年には約三三万人、更に昭和四十五年には約四五万人となった。

 この人口増加に伴い、千葉市の事業所は、昭和三十五年から四十五年までに二倍に増加した。昭和三十五年の事業所数は七、六九七であったが、一〇年後には一万五六九七となった。このうちの四八パーセントは商業の事業所であり、二三パーセントはサービス業、一一パーセントは不動産業であった。第三次産業の事業所は総数の八五パーセントを占める。また第二次産業の事業所は工業が総数の六パーセント、建設業が七パーセントであった。これらの産業別事業所のうち、全体の増加指数は一〇年間に二〇三であったが、不動産業の七九六を最高にして、建設業の三二一、ガス・電気・水道業の二八〇などが高いのは、住宅・工場・営業所などの建設が多いからであった。これらの産業別事業所の従業員や東京通勤者の増加が、商業・商店を飛躍的に発達させたことはいうまでもない。