小売業の立地基盤である人口、戸数の分布は、千葉市の人口増加にともなって大きく変化した。人口が増加した地域に小売商店が増加して、商業の地域的発展に新しい傾向があらわれた。昭和三十年代には、店舗数、従業員、年間販売額からみれば、旧市内の中心商店街はとびぬけて大きかった。これに対して、検見川地区と蘇我地区は、年間販売額からみれば、全市の一三・二パーセントと一〇・四パーセントの割合を示した。検見川地区は国電稲毛駅前の商店街が強力となり、激増する東京通勤者の住宅街の購買力によるものであった。また蘇我地区は川崎製鉄の従業員の社宅が増加してその購買力が大きくなったからであった。昭和三十年代には旧市内の中心商店街と検見川地区と蘇我地区の商店街のみが目立ち、その他にはいまだ商店街が発達していなかった。
しかし昭和四十年代になると商業の地域的発展は著しくなった。旧市内の中心商店街には店舗が激増し、年間販売額の七七パーセント(昭和四十年)を占め、その後は大型店、百貨店が増加して、購買力の吸引がますます大きくなった。これに対して周辺に強力な地区中心の商店街ができた。検見川地区の稲毛駅前商店街は再開発され、西友ストアをはじめ大型店も進出して、千葉市における西の副中心商店街となった。また蘇我地区の商店街は東の副中心商店街に発達した。更に犢橋地区には花見川住宅団地と隣接の八千代市の人口を基盤として、京成八千代台駅の南口に十字屋、西友ストアが専門店群とともに進出して既存の北口の商店街と一体となって強力な商店街をつくりあげた。これは千葉市外の北の副中心商店街となった。これらの副中心商店街の出現に対して、近隣商店街が多数できあがった。中心商店街の周辺に新住宅街ができると、そこに近隣商店街が成立した。仁戸名町商店街や花園町商店街は早くから成立した。また中心商店街から数キロメートルも離れて多くの住宅団地が造成された。この住宅団地はほとんど昭和三十~四十年代にかけて造成され、その中に団地商店街が配置されて近隣商店街となった。