中心商店街の変動

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 昭和三十年から千葉市の中心商店街に大変動が発生して今日に至っても、なおその変動がつづいている。それは中心商店街の西方移動と中心商店街の二極化である。これらの変動を発生させた力は都市計画と外来資本の進出などであり、地元商業勢力の動向もまたこれを助長した。中心商店街の西方移動は戦災復興都市計画がその口火を切った。近世・明治・大正・昭和前期という長い期間にわたって中心商店街の座にあった本町通り商店街はこの都市計画で街路幅が三六メートルに拡大されて商店街からビジネス街となり、街路は自動車の通過交通路となった。戦災復興都市計画によって中心商店街はその西方の街路の吾妻町通り商店街に移った。またこの都市計画によって、昭和三十三年二月に国鉄本千葉駅が移転し、同年六月に京成千葉駅が旧国鉄本千葉駅跡に移転した。したがって旧国鉄本千葉駅前の商店街は京成千葉駅の駅前商店街となり、中央銀座通り商店街と改名し、しだいに大型店も進出した。しかし京成千葉駅からの乗降客に依存して繁栄していた千葉銀座商店街と栄町商店街は大きな打撃を受けた。それでも千葉銀座商店街と栄町商店街は、しだいに中心商店街にまで発達して、吾妻町商店街を追いこした。それは国鉄千葉駅からの乗降客は駅前商店街の栄町通りに直線的に連絡し、県庁、市役所を中心とする官庁街に直結する街路を占めていたからであった。昭和三十八年四月に栄町通りと千葉銀座通りの中心商店街に一大打撃を与えることが発生した。それは国鉄千葉駅の廃止と千葉民衆駅の営業開始、高架線下の千葉ショッピングセンターの開業であった。新駅の裏口にある弁天町にたちまち新商店街が生まれたが、旧国鉄千葉駅の駅前商店街であった要町通りは全くおとろえた。また県都第二の栄町商店街は人通りの少ない商店街となった。更に栄町通りにつらなる千葉銀座通りも人通りは少なくなった。昭和三十年ころには栄町通りに一日三万人、千葉銀座通りに一日五万人の人通りがあった。駅の廃止の日から、栄町通りは一日一万人、千葉銀座通りは一日三万人となった。これは国鉄千葉駅からの乗降客がこれらの商店街を通行しなくなったからであった。更に千葉民衆駅には売場面積が一万五〇三平方メートル、千葉ショッピングセンターには売場面積二、八七一平方メートルの商業施設ができたからであった。それまで人通りの最高は千葉銀座通りであったが、千葉ショッピングセンターがこれにかわって、一日五万人を記録するようになった。

6―28図 中心商店街の西方移動
旧千葉駅前商店街
新千葉駅前商店街

 昭和三十年代は区画整理、駅の廃止・新設、街路の拡幅と舗装などによって商店街や店舗が近代化をすすめた。この近代化は他律的な要因である都市計画の諸事業に強制されたものであった。中心商店街における商店には商業の共同化、協業などの構造的高度化をおしすすめる動向はあらわれなかった。しかしこの時期に企業間の格差が大きくなった。扇屋をはじめ衣料品業種の二店が百貨店となり、中心商店街に百貨店は三店となった。また大小の県外資本の進出が活発となって大型店が増加して中心商店街としての威容をあらわしはじめた。昭和三十七、三十八年ころに中心商店街の周辺にある郊外住宅地には、スーパーマーケットが急速に増加して、日常生活品、飲食料品の購買力が中心商店街に流出することをくいとめた。これはまた郊外商店街の従来からの旧式な商店に打撃を与えたことはいうまでもないが、郊外商店街を近代化する一大要因となった。

6―64表 デパート大型店売場面積(m2
1234567891011121314
そごう奈良屋扇屋十字屋田畑丸井丸興緑屋京成信販ライオン堂千葉ステーションビルショッピングセンターセントラルプラザニューナラヤ
47(23,300)(15,388)9,668.04(6,758)23,00016,000
(全館)
464,913.73
45
44
4323,30020,075.2
(許可面積)
19,809.910,908.231,15513,603.5
4217,10013,609.914,494.371,445.4
41
4012,575.39,859.914,348.69
393,4001,4851,380
388,362.6910,503.52,871
379,903.45,698.641,313.4
369,919.943,032.751,180
354,040.52,443.54S33
760
S33
1,100
S30 594
S23出店
(注)1 空白は前年から変わっていない。 2 斜線は出店前 3 1~5のデパートにおける数字は許可面積
  1~5における( )内は現在売場面積

(『千葉県商業統計』)

中心商店街

 昭和四十年代に入ると中心商店街の変動は更に激しくなった。それは中心商店街の二極化と西方移動の激化であった。既存の百貨店の奈良屋・扇屋・田畑などの売場面積の拡大競争がはじまり、さらに十字屋百貨店が進出した。中心商店街の大型店である丸興・丸井・緑屋・ライオン堂なども売場面積を拡大した。このころ国鉄千葉駅前に関西資本のそごうが進出した。また奈良屋は中心商店街の店舗を廃して、ニューナラヤとして駅前に進出し、旧店舗はセントラルプラザという専門店集団となった。国鉄千葉駅前は民衆駅の千葉ステーションビル、ショッピングセンター、そごう、ニューナラヤなどによって売場面積の合計は五万五七七四平方メートルに拡大した。これに対して中心商店街は百貨店の扇屋・十字屋・田畑や大型店などの売場面積が六万八八四八平方メートルであった。中心商店街にはこれらの百貨店、大型店のほかに中・小の商店が四百余もあった。これらの商店は百貨店、大型店の競争激化による影響が大きく、目貫通りの衣料品店でも有力な商店が一〇店舗も廃店や業種転換をしたり、多くの商店は百貨店、大型店の主要商品と競合するとき、かなりの年間売上高を減少しなければならなかった。

 中心商店街は二極化した。従来の中心商店街に対して国鉄千葉駅前に新しい中心商店街ができた。巨視的にみれば中心商店街の西方移動は千葉市の中心商店街の拡大であり、中心商店街の二極化もまた千葉市の中心商店街の拡大である。二極化した中心商店街には、競争が激しくなった。昭和四十年代末になると、客足の駅前集中が多くなってきた。昭和四十八年の調査によれば、百貨店、大型店の売場面積一平方メートル当たりの入店者は駅前と中央地区をくらべると大差が生じていた。駅前のそごうは二・五人、ニューナラヤは二・一人であり、中央地区の田畑・緑屋は一・〇人、扇屋その他は〇・八~〇・九人となった。ただし扇屋は店内改造のため、食堂と売場面積の二分の一は使用していなかった。駅前のそごう、ニューナラヤ、ステーションビル、ショッピングセンターの入店者数は一〇万人をこえているが、中央地区の扇屋、田畑、十字屋、緑屋、セントラルプラザの五店の入店者数は五万四千人であった。駅前商店街の客足は増加していくが、中央地区の商店街の客足は減少していく。このため中央地区の商店街は百貨店、大型店をはじめ、中・小の店舗が一体化して抜本的な商店街の再開発が必要となってきた。