千葉市の商業発展の中心機関として千葉商工会議所がある。千葉商工会議所は昭和十五年(一九四〇)十月二十八日に創立された。この前身は大正八年(一九一九)につくられた千葉実業会であるという。しかしこれは一部の実業家の集まりで、地域商工業発展のための活動は特にしなかったから、商工会議所の前身とはいえない。このころ東金町・木更津町には商工会が結成されて商業活動に貢献していた。東金商工会にならって千葉倶楽部を結成したのは大正十年であった。この千葉倶楽部の目的について、当時の『房総日日新聞』は総会発会式の会頭演説を次のように報じていた。
千葉市商人は県下の中心市場たるべき商権を握るよう努力する。市内商業家は製品廉売して地方商業を開発し、営業上の機能を高める。四街道・佐倉・東金などを供給地として千葉市商人をこの方面に発展する。課税、運賃について当局と相互利益をはかり、金融の融通をはかる。
このように千葉市の商工業の発展をめざしていたが、千葉市商業倶楽部の目的は商業者の税金問題の解決であった。したがって千葉市商業倶楽部が主催する商業・経済の講演があっても集まる人もいなかった。昭和の初期には会員に吾妻町通りの商業者が多かったので別名を吾妻倶楽部とよばれた。当時は会費年五〇銭で全員数は約二百人であった。事務所も個人の住宅で会議も会頭の家で開いていた。
昭和十四年に千葉商工連合会に切りかえた。前年に商工会議所法が改正され、千葉市にも商工会議所を結成しようとしたが、年四百円を納税する商業者でなければ会員の資格はえられず、この規格はあてはまらなかったので、商工連合会という名称にしたのであった。当時の事務所はようやく県庁公園わきの公園倶楽部におかれた。そして商工会法準則の制定によって千葉商工会をつくることができた。当時は県都にして商工会議所がないのは浦和市と山口市と千葉市であった。しかし千葉商工会は千葉市の商店の擁護運動をくりひろげた。昭和初期の世界恐慌が深刻化した昭和八年であった。このころは産業組合や購買組合などが出現して商業者を圧迫した。また東京の百貨店の三越・松坂屋・高島屋などが不況打開のために千葉市に出張所をおき、無料配達を行い、商店を圧迫した。このとき千葉商工会は、これらの動向にさまざまの抵抗運動を行った。昭和十五年にようやく千葉商工会議所を設立することができた。しかし、すでに満州事変、日華事変となって戦争が拡大し、統制経済が行われた。昭和十八年に千葉商工会議所は解散し、同年に県下の商工会議所と商工会を一本化した千葉県商工経済会を組織した。この千葉県商工経済会は戦後の昭和二十一年に解散し、同年に社団法人千葉商工会議所を創設した。昭和二十五年に商工会議所法が公布され、同二十八年の改正法によって特殊法人組織の商工会議所となった。今日の千葉商工会議所会館は、昭和三十六年八月に建設された。それから千葉商工会議所の活動は多角的となった。千葉市に進出する百貨店・大型店と地元商店街との共存、国鉄千葉駅の移転による要町、栄町の衰微対策、中心商店街の再開発問題などの重要問題にとりくまなければならなかった。