昭和三十八年四月、千葉駅が移転した。この経緯を前記「京葉臨海工業地帯」から要約すれば次のようになる。
旧千葉駅は、私鉄時代の総武鉄道の一駅として生れたものである。その後、房総鉄道の本千葉、蘇我とつなげられた。更に、これら鉄道から接続して路線は延びた。もともと千葉駅はターミナルとして、合理的に設計されたものではなかった。その後、輸送力の近代化と増強とが図られ、特に、複線・電化、ディーゼル化などによって列車本数が増加し、他の連絡線との接続問題もおこった。太平洋戦争後の昭和二十一年に、戦災復興に関連して千葉駅の移転計画が提案された。一方、通勤人口の急増、他方、列車運転回数の増加という二つの現実問題に対処するために、早急な解決が望まれた。列車運転回数の増加は、平面交差の場が増えたことを意味し、ホーム使用回数も増えたことになる。そのため、ホーム不足の手段として、昭和三十一年六月に全国でも珍しいゼロ番線が誕生した。これは荷物置場を臨時にホームにしたものであった。
昭和三十二年五月現在の列車本数は四九九本、これは気動車化前の三一九本に対して五六パーセントの増加である。しかし、直通はわずか三六本で、あとの四六三本はすべて千葉駅が始発か終着になっている。また、この七四パーセントは客車でその七割が電車である。この電車の発着は三番線ホームで、東京方面から着いた電車は、そこから折返し発車していた。ラッシュのホームに着けない場合には一番線ホームも利用した。この一番線ホームは、主に総武本線、成田線の発着ホームであるため、東京方面からの電車はしばしば信号待ちを余儀なくされた。また、貨物専用ホームも客車ホームに利用されるなど、ホームの変更はしばしば誤乗をひきおこした。列車本数の増加と通勤、通学などの利用客の増大で、ホームは人も車も大混雑となった。昭和三十五年十二月十二日付『産業経済新聞』は「千葉駅構内で大きな事故を起したら、千葉県の鉄道の九〇パーセント以上がマヒします。」と当時の駅長のことばを伝えている。
昭和三十五年三月、現在の千葉駅(千葉市新千葉一丁目一番地一号)のところで移転工事が開始され、三十八年四月二十八日に開業した。これは千葉民衆駅と呼ばれた。
千葉駅の総工費は三五億八千万円、総面積二万五千七百平方メートル、ホームは八番線まであって、電車・内房・外房・総武本・成田各線でそれぞれ二ホームずつ使用している。昭和四十四年の発着列車数は六七四本、そのうち、東京方面へ向かう電車は五三パーセントの三六〇本である。次いで、内房線九九本、外房線九七本、総武本線七六本、成田線四二本となっている。
駅前広場は一万三千平方メートルあって、バス・ククシー乗場、有料駐車場がある。しかし、激増する自動車利用客のため、現在では手ぜまになっている。駅はターミナルデパート形式をとり、高架線下に千葉ショッピングセンターを設け、駅前商店街を形成しない形になった。現在の千葉駅は、激増する旅客輸送が専門で、貨物部門は旧千葉駅裏を使用している。また、旧千葉駅近くの住民の要求もあって、昭和四十年十月に東千葉駅が開業した。
駅名 | 昭和四十年 | うち定期 | 昭和四十五年 | うち定期 | 増加率※ | 定期率※ |
人 | 人 | 人 | 人 | % | % | |
幕張 | 一〇、二二〇 | 八、〇一九 | 一〇、三六六 | 七、八三五 | 一 | 七六 |
新検見川 | 九、五六一 | 七、三二四 | 一二、八一一 | 九、四二〇 | 三四 | 七四 |
稲毛 | 一八、四三四 | 一四、四八九 | 二五、二六八 | 一九、〇八七 | 三七 | 七六 |
西千葉 | 一八、〇八八 | 一四、〇六八 | 二六、〇二四 | 一九、七九〇 | 四四 | 七六 |
千葉 | 六四、六〇六 | 四三、一〇八 | 七三、〇〇〇 | 四三、九七六 | 一三 | 六〇 |
東千葉※ | 五〇六 | 三八九 | 一、三八三 | 一、一〇四 | 一七三 | 八〇 |
都賀※ | 二、三〇一 | 一、六八〇 | 三、三一八 | 二、四七六 | 四四 | 七五 |
本千葉 | 四、二四〇 | 三、四一三 | 三、九〇四 | 二、九五九 | △ 九 | 七五 |
蘇我 | 八、三〇六 | 七、五五〇 | 七、七六四 | 六、五五八 | △ 七 | 八四 |
鎌取 | 八五八 | 七四〇 | 八五九 | 六九一 | 〇 | 八〇 |
誉田 | 二、四二三 | 二、〇六四 | 二、五六七 | 二、〇五一 | 六 | 八〇 |
土気 | 一、八五〇 | 一、五三〇 | 一、八八八 | 一、四七一 | 二 | 七八 |
浜野 | 一、一一一 | 九七九 | 一、五七四 | 一、一四五 | 四二 | 七三 |
人 | 人 | 人 | 人 | % | % | |
幕張 | 三、五八二 | 二、一七二 | 三、七九九 | 二、二〇七 | 六 | 五八 |
検見川 | 二、〇〇三 | 一、一四五 | 二、二八七 | 一、三二〇 | 一四 | 五八 |
稲毛 | 三、八七三 | 二、〇八一 | 六、四二〇 | 三、七二一 | 六六 | 五八 |
みどり台 | 二、七三〇 | 一、六二〇 | 五、七七六 | 三、九二三 | 一一六 | 六八 |
西登戸 | 一、二六二 | 六二一 | 一、五六五 | 八七九 | 二四 | 五六 |
新千葉 | 一、〇六八 | 五五三 | 九〇四 | 四四六 | △一八 | 四九 |
国鉄千葉駅前※ | 一、九五八 | 四〇六 | 三、六八九 | 八五六 | 八八 | 二三 |
千葉 | 一〇、五八二 | 五、五〇〇 | 一四、六五七 | 九、三五八 | 三九 | 六四 |
千葉民衆駅の開業後、国鉄は輸送力の近代化と増強をますます推進した。『鉄道要覧』(千葉鉄道管理局、各年)から、千葉市域に直接かかわるものをあげれば次のとおりである。
昭和三十八年 千葉――本千葉間の複線化、自動化
昭和三十九年 千葉――八幡宿間の複線化、自動化、総武線電車一〇両編成(一〇一型)の運転
昭和四十年 千葉――四街道間複線化、自動化
昭和四十三年 千葉――成田間電化、千葉――木更津間電化
昭和四十七年 東京――津田沼間複々線化、東京――千葉――房総半島各線に快速・急行・特急の増加
千葉市の人口は市域の拡大もあるが、主に社会増によって急増した。昭和三十五年に二四万一六一五人、昭和四十年は三七パーセント増加して三三万二一八八人、四十五年は更に四五パーセント増加して四八万二一三三人に達し、翌四十六年には全国一五番目の五〇万人都市となった。この爆発的人口増加は、千葉市の台地の畑作地や林野を切り開き、また、海岸の埋立地を次々に住宅地化した。この新興住宅地域と鉄道各駅はバスで結ばれ、通勤・通学者をさばいている。この人口増に伴って、新興住宅地になった都賀は、昭和四十三年三月、都賀信号所から駅として開業している。
ここで、千葉鉄道管理局、京成電鉄の資料をもとにして、昭和四十年と四十五年の一日平均乗車人員を比較すると、次のようになる。
この表で五年間に三〇パーセント以上の増加率を示したのは、国鉄では幕張駅、千葉駅を除いた総武線の電車沿線と総武本線、浜野の六駅、京成電鉄では稲毛、みどり台、国鉄千葉駅前、千葉の四駅である。京成千葉駅と国鉄千葉駅前駅を除けば、高い増加率を示した駅は昭和四十年からの五年間に、それぞれの駅勢圏内に住宅地域(団地)ができている。例えば、あやめ台、千草台、小倉、宮野木、大宮、都賀、稲毛公務員、稲毛第一、稲毛海岸三丁目、幸町などで、住宅公団や一般の分譲住宅である。
これらの駅は通勤や通学のために、朝夕二回の乗降客で混雑する時間帯をもっている。例えば、昭和四十五年十月三十一日の東千葉駅調べでは、この日の乗車人員一、三八〇人のうち、六~九時までに三〇パーセント、一六~一九時までに二九パーセントが乗車している。また、土気駅では、昭和四十五年十二月四日に一、五三九人が乗車し、六~九時に七三パーセントが乗車した。西千葉駅は昭和四十五年九月二十五日、六~九時に四一パーセントが乗車した。西千葉駅は本屋口より千葉大学側の方が乗降客が多く、全体の六四パーセントが大学側を利用している。千葉駅は昭和四十四年十一月四日調べで、全乗降客数は一二万四〇〇二人であった。このうち六~九時までが二三パーセント、一六~一九時までが二六パーセントを示した。また、同駅では昭和四十五年十月三十一日調べで、乗車人員七万四五八七人のうち、西千葉方面へ七二パーセント、本千葉方面へ一七パーセント、佐倉方面へ一一パーセントが向かっている。
これらから、千葉市内中心街に接する駅は、通勤、通学はもとより業務、娯楽、買物などのための交通流がかなりあると考えられるが、ほかの沿線駅は通勤・通学輸送が圧倒的に多く、乗車客は主に朝にピークをつくり、上り方面を指向していることが明確である。
昭和四十七年に東京――津田沼間が複々線化し、千葉駅や房総半島各線に快速電車が走るようになった。近距離と中距離を分離して輸送する方向である。しかし、津田沼――千葉間は複線であるため、快速、急行、特急を優先にしていることから待ち時間が長くなった。これは、千葉駅以外の総武線駅は通勤・通学輸送面からはマイナスである。千葉―津田沼間の複々線工事と鉄道、道路の立体交差が待たれる。