商店街交通量の推移

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 千葉市の中心商店街はその重心を次第に西方へ移動している。『千葉市中心商店街造成診断報告書』(昭和四十六年、千葉市役所、千葉商工会議所)によれば、千葉市の中心商店街はすでに四度も移動した。すなわち、第一期は鎌倉時代から明治二十年代までで、市場町、本町、道場町の商店である。これら商店街は現在もなおその面影をとどめている。第二期は明治・大正・昭和十年代で、北端の旧国鉄千葉駅から南端の県庁、市役所までの間に院内町、本町、吾妻町、市場町、長洲町が連続した商店街をつくった。戦災が中心商店街を移動させた。第三期は要町、栄町、通町、吾妻町の商店街で、戦後の千葉市の中心商店街になった。特に、銀座通りは最高繁華街だった。第四期は現在である。国鉄千葉駅と京成千葉駅が移転し、その間の高架下にショッピングセンターができ、百貨店が近くに立地した。最高繁華街が拡大、移動している。

 この中心商店街の移動は、人々の商店街における流動を変えている。すでに、一五年以上も商店街交通量の調査を続けている『千葉市中心商店街の交通量調査、消費者動向調査』(昭和四十六年、千葉簿記学校)の報告資料をもとにして商店街における交通の流れをみたい。

 調査日は、ここ一〇年ほどの間、毎年七月上旬の土・日・月曜日の三日間実施され、調査地点も増えてきている。ここでは、昭和四十六年の結果をもとにして、必要に応じて過去の調査と比較したい。

 昭和四十六年は七月三日(土)雨後曇、四日(日)晴、五日(月)晴の三日間で、七~一九時までの一二時間調査をそれぞれしている。調査場所は一〇地点である。七月三日(土)からみると、合計二一万六九三七人が調査地点を通過した。そのうち、最も多いのはショッピングセンター入口の四万九七七四人で、全体の二三パーセントである。次いで国鉄千葉駅前の一四パーセント、富士見町ガード下の一三パーセントである。更には勉強堂前、興業銀行前、銀座通りと続く。土曜日の交通流の中心は、国鉄千葉駅前から高架下のショッピングセンターであり、次いで、京成千葉駅と扇屋を結ぶ道路である。

 七月四日(日)は合計二六万九五五六人である。最高の交通流を示す地点はショッピングセンター入口で六万一八六〇人、全体の二三パーセントである。次いで富士見町ガード下の一五パーセント、更に、勉強堂前、銀座通り、国鉄千葉駅前などが各一一パーセントで続く。日曜日においても国鉄千葉駅前からショッピングセンターにかけては交通流の中心地域である。次いで、扇屋から銀座通りが混雑する。

 七月五日(月)は合計一七万五八四八人である。平日においても最高の交通流を示すのはショッピングセンター入口の四万五八二九人で、全体の二六パーセントである。以下、国鉄千葉駅前一五パーセント、富士見町ガード下の一三パーセントが目立っている。これは、土・日曜日以上に国鉄千葉駅前からショッピングセンターの地域が交通流の核心となるということを示している。

6―42図 人の交通量(昭和46年7月3日(土)雨後曇)
6―43図 人の交通量(昭和46年7月4日(日)晴)
6―44図 人の交通量(昭和46年7月5日(月)晴)

 国鉄千葉駅前からショッピングセンターにかけての地域が、商店街交通流の核心地域となるのは、昭和四十二年千葉そごう開店以降である。これは、昭和三十九年、四十年ころから実数においてこの地域は上昇を続け、銀座通り周辺から核心地域を移動させる過渡期を数年間つくっていた。現在、なお、ショッピングセンター入口の交通流は上昇しており、国鉄千葉駅前、富士見町ガード下はほぼ停滞気味であるが、交通流の変動が駅の移転や百貨店の立地によっていることを考えれば、今後、この地域は核心地域としての地位を強固にしていくと思われる。それは、先にみたように、国鉄千葉駅、京成千葉駅、国鉄千葉駅前駅の乗降人員が増加の一途にあること、国鉄、京成の各千葉駅前が依然としてバスターミナルになっており、バスの輸送力が増強されていること、ニューナラヤがこの地域に進出したこと、更に、ショッピングセンターが京成線高架化に伴って売場面積を拡張したことなどのためである。

ショッピングセンター入口の混雑