都市機能の発達

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 千葉市の人口は昭和二十六年から増加が激しくなり、昭和四十年から飛躍的に増加した。千葉市の都市機能が多様化し、また拡大したからであった。産業別人口から千葉市の都市機能の発達をみれば驚くべきものがある。高度経済成長がはじまる昭和三十年の産業別人口は約七万八千人であったが、それから一五年後の昭和四十五年には、産業別人口は約二一万九千人に増加した。この中には東京を主とする市外通勤者をも含むが、千葉市の都市機能が発達して労働市場が大きく拡大したことにほかならない。産業別人口の増減傾向は、第一次産業人口が少なくなり、第二次産業人口の激増と第三次産業人口の飛躍的な増加となっている。千葉市の農業人口はゆるやかに減少しているが、第二次産業人口と第三次産業人口の激増のために、産業人口の中に占める割合は急速に小さくなった。昭和三十年において二〇・一パーセントを占めていたが、昭和四十五年には六・五パーセントとなった。また、海面埋立がすすむので漁業人口は激減した。これに対して、工業人口と建設業人口は昭和三十年から同四十五年までに、実数において一万七千人から七万五千人に、割合において二二パーセントから三四パーセントに増加した。建設業人口の増加は、都市建設が盛んなことを示し、工業人口の増加は工業都市としての発展を示している。更に第三次産業人口の増加は特に著しかった。昭和三十年から同四十五年までに、実数において四万二千人から一二万九千人に、割合において三〇パーセントから五九パーセントに増加した。この増加の主力は商業人口とサービス業人口であり、商業都市としての発達が著しかった。金融業や不動産業は企業の増加や宅地造成の盛んであることを裏書きし、通信、運輸の人口増加は人と物の輸送と流通の増加に対応した。公務員の増加は国の諸官庁の末端機関や県庁、市役所などの管理中枢機関が集中し、県政の中心都市として成熟してきたからである。

6―47図 千葉市の産業別人口の増加
6―48図 千葉市の産業別人口の割合

 千葉市の産業がすすみ、都市機能が発達するにともなって、千葉市の通勤圏は拡大した。県内、県外から千葉市への通勤者は、昭和三十年には約一万二千人であったが、昭和四十年には約三万八千人に増加した。このうち県内の市町村から約三万二千人、県外から約六千人であった。千葉通勤者は市原市の約四千人を第一とし、船橋市、四街道町の二千人、千葉通勤者が一千人をこえる市町村は、市川市、習志野市などの京葉地帯や、木更津市などがあり、九十九里浜平野の東金市、茂原市、大網白里町であり、また佐倉市であった。千葉市の通勤圏は京葉地帯、九十九里浜平野、北総台地にひろがっていた。また千葉市から流出する通勤者は、昭和三十年に約一万八千人、昭和四十年に約三万九千人に増加した。このうち県内の市町村への通勤者は約一万二千人、東京へ約二万七千人、その他の県外へ百数十人であった。県内には船橋市に三千人、市川市に二千人、市原市へ二千人など京葉地帯を主としてその他の県内の市町村には少なかった。千葉市の流入通勤圏は県内の中央部一帯にひろがっていたが、流出通勤圏は京葉地帯特に東京を主としていた。この傾向はますます強くなり、千葉市は東京の住宅都市の性格が強くなった。

 千葉市の都市機能は産業別人口の増減からほぼうかがい知ることができるが、これらの都市機能の発達にしたがって、市域内部はそれぞれの都市機能の営む専門地区に分化してきた。千葉市の都市機能をあげれば次のようになる。

 商業都市機能

 中枢管理都市機能

 港湾都市機能

 流通センター機能

 工業都市機能

 住宅都市機能

 千葉市は卸売業と小売業の事業所が七、六四〇、従業員四万九千人、その年間販売額は三、〇四八億円(昭和四十五年)に達し、県内の三分の一を占める千葉県下最大の商業都市である。商業地区は中心商店街として、扇屋、田畑、緑屋、十字屋の百貨店と丸興、丸井、セントラルプラザその他の大型店を中心として約四百の中小商店から成る。この中心商店街に対して、最近は国鉄千葉駅前にステーションビル、ショッピングセンター、千葉そごう、ニューナラヤなどの百貨店、専門店が集中した。中心商店街と駅前商店街は、約六百メートルもはなれることによって、千葉市の中心商店街は二極化した。この中心商店街に対して、副中心商店街があらわれた。それは南に蘇我商店街であり、北の稲毛商店街である。更に中心市街の周辺に新興住宅街が造られてそれぞれに近隣商店街ができた。また中心市街から五~六キロメートルの半径で描かれた円周上に多くの大規模住宅団地が造成されて、その中に団地商店街があらわれた。

 千葉市の官庁街もまた発達した。官庁街は明治初期に県都となってから、県庁や千葉市役所を中心として市場町、長洲町にできあがった。また県政、市政の各機関のみならず、国の末端機関や県内市町村の各種連合団体や新聞社の支局などもそのまわりに集中した。昭和四十五年に、千葉市役所が港湾埋立地に移転してから、埋立地に港湾関係の各官庁や貿易関係、港湾運送関係や国際貿易会館などが建設された。埋立地は市政の管理中枢機関と港湾業務の関係機関による新官庁街となった。千葉市の官庁街も二極化した。

県庁周辺の官庁街

 千葉市の港湾機能は、飛躍的に大きくなった。千葉港は昭和二十五年に地方港湾に指定され、同二十九年に開港が指定された。昭和三十二年に重要港湾に指定され、はやくも同三十九年に特定重要港湾に指定されるほどの急速な港勢の伸びを示した。昭和四十五年には、千葉港は横浜港、大阪港、神戸港、川崎港、東京港などにの中にあって日本第四位の港勢となった。

 しかし、千葉市民は日本第四位の港湾をもつ港湾都市の市民であるという実感を持っていない。千葉港は指定港湾から特定重要港湾になるまで、わずかに一五年の歳月しか経ていない。日本にある七二の特定重要港湾がいずれも数十年の市民の努力を経てようやくそこまで発展したものとはちがっていた。千葉港は原油と鉄鉱石の輸入を主とする港湾であり、鉄鋼港湾、石油港湾である。京葉臨海工業地帯の巨大企業の専用埠頭からなる工業港である。工業港は商業港と違って市民には親しみが持てない。しかし、出洲埋立地に公共埠頭の建設がすすみ、商業港の機能を発揮しはじめている。また、千葉港は木材港であり、約七〇社の木材取扱業、木材販売業、木材加工業の事業所が集中している。

千葉港における木材埠頭

 千葉市は東京港における重要な流通センターとなってきた。千葉市は早くから道路交通の要地、鉄道交通の中心地であった。特に、最近の物資輸送の大動脈である東関東自動車道、京葉有料道路、国道一六号線、国道五一号線、国道一四号線などが千葉市から四方に放射状をなして通じている。また、千葉港の公共埠頭の造成が進み、一部では入港船舶の荷揚げが行われている。将来、東京湾諸港から出入される貨物の輸送のために湾岸鉄道や湾岸道路が計画されているが、その一部の湾岸道路も使用されている。このような海陸交通の結節点としての千葉市は、東関東地方の貨物の呑吐口としての流通センターの機能を果たしはじめている。千葉港のヒンターランドは、千葉県の北部、中部から茨城県・栃木県、埼玉県東部にひろがっている。この流通センターは出洲埋立地に置かれ、すでに千葉総合卸商業団地協同組合が昭和四十三年に進出した。

 千葉市は市原市に次いで県下第二の工業都市であり、京葉臨海工業地帯の核心部をつくりあげている。千葉市の工業は、昭和四十五年に事業所数九四八、従業員数四万八千人、出荷額四、〇八五億円に達した。千葉市の工業地区は、臨海埋立地と内陸工業団地とに分かれている。内陸工業団地は長沼六方地区・千種地区・花島地区などが造成され、ここに昭和三十五年から同四十五年までに六五社が東京から進出した。このうち九〇パーセントは、昭和三十五年から同四十年の五ヵ年に進出した。臨海部は川崎生浜地区と幕張地区と中央埋立地区に分けられる。川崎生浜地区には川崎製鉄、東京電力などの基幹産業と、その関連産業や下請工場が集中した。これらの工場は製鉄、電力の基幹工場が昭和二十年代の後半に進出、関連産業、下請工場の一三社は昭和三十年代の後半から同四十年代の初期に進出した。幕張地区は食品加工、自動車整備、船舶関係の工場が多く、その数は三〇社にのぼるが、これらは主に昭和三十年代後半から同四十年代の初期に進出した。これらの臨海工業地に対して中央埋立地には二八六社の工場が集中している。この地区には食品コンビナート、木材流通センター、自動車整備地区といわれるほどにこの業種の工場が多い。食品コンビナート関係が五〇社、木材関係が七〇社、自動車販売・整備関係が四四社、そのほかに建設材工業、倉庫業なども少なくない。これらの工場は、昭和四十年から四十五年の数ヵ年間に進出したものが大部分である。