昭和四十五年度における千葉港区には、公共岸壁は、千葉公共岸壁と市原公共岸壁の二ヵ所しかない。この公共岸壁の利用状況は、千葉港区全体からみれば、隻数において千葉公共岸壁二、四一四隻、市原公共岸壁二、二九九隻で合計四、七一三隻である。これは千葉港区六万二四四二隻中わずか七・五パーセントにすぎない。更に千葉市に直接関係ある千葉公共岸壁は約四パーセントにしかならない。また、総トン数では両公共岸壁で三・七パーセント、千葉公共岸壁は二・五パーセントを占めるにすぎない。これは、公共岸壁に入港する船舶がほかの企業の専用岸壁にくらべて小型であることも意味している。これを内航船・外航船別にみれば、内航船が圧例的に多く全体の九七・五パーセントを占めている。外航船は一一五隻しかなく、そのうち千葉公共岸壁は一〇二隻となっている。また、一万トン以上の大型船舶は千葉公共岸壁に一三隻入港したのみである。
次に、出入物資からみれば、両公共岸壁で一八七万四四七八トンで、千葉港区全体のわずか二・二パーセントしかない。更に、千葉公共岸壁は一一三万一五〇〇トンで一・三パーセントにすぎない。以下、千葉公共岸壁のみに限り、まず出入物資からみると、移輸入が移輸出より圧倒的に多く、全体の九一パーセントを占めている。また、全体の八〇パーセントは移入になっている。移入物資の主なものは、鉱工業関係が八四万九七九八トンで移入合計九〇万三六七六トンのうち九四パーセントを占めている。特に目立つのは、輸送機械と砂利、砂、石材などで、モータリゼーションの進展と建設ブームにのっている千葉市の特徴を出している。次いで、食料工業品、砂糖、原木、化学肥料、石炭、重油、鉄鋼、日用品が一万トン以上の移入で続いている。輸入は、原木八万四〇〇五トン、砂糖三万九二五六トンで輸入合計の九六パーセントを占めている。移出は非鉄金属と鉄鉱が一万トンをこえるのみで、金属機械工業品、化学工業品関係が八九パーセントを占めている。また、輸出は石油製品と化学肥料が一万トン以上で両者で九八パーセントになる。
千葉港内における公共岸壁の利用はまことに貧弱である。これは商業港的色彩の比重があまりにも軽いことでもある。明治中期ころまで寒川、登戸両港を軸に千葉町は港町として栄えた。倉庫や問屋が並び、各種商人はソロバン片手に休む間もないほど取引きに応じた。海運関係者のための宿屋や料亭もにぎわった。当時の港湾は規模こそ小さかったが、商業港であったため、地域住民と直結していた。それに対して現在の千葉港は、昭和四十五年に日本第四位の大港湾となり、特定重要港湾に指定された日本有数の港湾になった。千葉市はいつのまにか港湾都市といわれるようになった。しかし、それは臨海工業地帯にある各企業の巨大な専用岸壁を意味し、中味は、石油港湾であり鉄鋼港湾という工業港の性格がまことに強いものである。したがって、千葉市民と直結したものにならないのは当然である。工業港と商業港の地域社会へのかかわり方の違い、それぞれの意義を市企画課調査報告書『港湾の影響』からとり出してみたい。
臨海重化学工業地帯の重要な立地因子は工業港である。工業港を重要立地因子として成立する臨海重化学工業地帯の開発は、産業構造の高度化、人口集中、就業構造の近代化、県民所得の増加、地方自治体の税収の増加をまねいている。しかし、工業港は直接的に鉄鋼港湾とか石油港湾というように、特定の製鉄工場や精油所などの特定工業資本、巨大企業の発展の生産手段の一部であって、地域経済や地域社会には閉鎖的性格をもっている。そして、工業港は地域経済・社会の発展と結合する以上に国民経済の発展という国家的立場から巨大産業資本の用役に任じている。工業港はあくまでも私的企業としての性格が明確であって、私的企業の流通過程のみならず、直接的にはその生産過程に組入れられているものである。
したがって、工業港の港湾の増大はそのまま地域開発に大なる貢献をしているように説明されているが、これは単なる統計的表現である。港湾は一般に出入船舶の総トン数や隻数や取扱貨物量で表わす。このような工業港の港勢は工業資本の生産高であって、直接に地域経済・社会の発展を示すものではない。地域開発の本来の目的が、地域格差の是正にあるならば、地域住民の広義な生活向上を目指すものでなければならない。したがって、工業生産額の増大、産業構造の高度化や人口集中などの地域社会の変化は、地域住民の所得の増大をもたらしたように思われる。しかし、所得なるものは利潤と賃金からなり、利潤は既成大都市に吸収され、地域住民には賃金だけ与えられているのである。臨海工業地帯の工業港の地域社会に与える影響は、工業港の港湾機能が工業資本を通じて迂回的に結合しているもので、直接的に地域社会の発展に結合していない。工業港は工場の一部であって、工業港の地域に与える影響は工業港を持つ工場に及ぼす影響の中に含まれる。公共投資の名において、工業港への港湾投資も、事実上、一般的には臨海工業資本への財政的援助を意味している。
商業港は物資流通路線の断層ともいうべき、海上輸送と陸上輸送の結合点にあり、両者の輸送路のターミナルである。港湾は国民経済が未発展の段階では、単純な交易の場・流通センターという市場的性格があった。この点は、資本主義の各発達段階においても本質的には変わりはない。港湾をもつ地域が港湾都市を建設するとか、港湾が地域経済・社会と関連が深いということは、この港湾の本質的性格から成立することである。したがって、商業港は、港湾機能を通じてその地域に、工業港の閉鎖的性格に対して開放的性格を持つものである。海陸輸送の断層に成立する商業港は、港湾機能を果たすための諸企業、すなわち、港湾運送業、倉庫業や各種の港内第三次産業や銀行・貿易商社・陸運業や関係官庁などを成立せしめて、いわゆる港湾都市を形成する。このような港湾機能を遂行する事業所や官庁の増加と立地が、港湾を持つ地域の経済や社会に、産業構造の高度化なり社会構造の変化なりを発生させる。かくて商業港は主に第三次産業人口の増加を招くことが、工業港の第二次産業人口を増加せしめることとのちがいである。また、商業港が地域に対して開放的であることは、港湾付近に前述のような各種の第三次産業を発生させるが、その背後地には第二次産業を立地させ、いわゆる港湾のヒンターランドにおける生活消費物資や工業原材料や工業製品の呑吐口となる。かくて港湾は原材料の供給地となり、そこから総移送費が低廉な内陸に工業を立地させる。この点、工業港よりも商業港はこれと関係を持つ地域は広大である。商業港への公共資本の投資は真の意味の公共施設の造成となる。
工業港への公共資本の投資は、臨海工業資本への財政的援助であるといわれるように、商業港への公共投資もまた、港湾第三次産業資本への財政的援助であるという人々もある。港湾第三次産業のうち、大手倉庫業者は主要港の岸壁・埠頭・桟橋の内部や背後に自営倉庫を持ち、港内運送業に絶対的支配権を持っていることが通例である。これは船舶の大型化、専用船化や貨物の種類別集中化の傾向が最近著しくなり、公共港湾である商業港においても、公衆が道路を使用することとは異なり、港湾使用は専用業者を媒介として利用している。これらの専用業者である倉庫業、港運業、船会社、荷主は、海陸交通の断層における貨物流通のスピードアップと船舶運行の回数を早めることを主眼としている。この結果は、価格の騰貴を防ぎ、結局においては最終消費者の負担を軽減する。このことは、最終消費者はより少ない費用で港湾を利用していることであり、商業港への公共投資は公共の利益に奉仕していることになる。
千葉港が商業港の性格を強めることは、千葉市に大きな影響を与えることになる。また、具体的には、千葉中央地区の中央公共埠頭が完成して、その機能を発揮するときである。
現在の千葉港の商業港としてのウエイトは、さきにみたように、入港船隻数で四パーセント、総トン数で二・五パーセント、取扱い貨物量で一・三パーセント(いずれも千葉公共岸壁)を占めるに過ぎなかった。これを過去の場合と若干比較してみると、昭和三十三年の場合、公共物揚場に入港した船舶は九〇九隻、全体の二二パーセント、総トン数一二万三五五六トンで全体の五パーセント(機帆船・帆船が九一パーセントを占めていた)、取扱い貨物量一一万四四六〇トンで全体の四パーセントであった。貨物内容も石炭及びコークス、米穀類が三万トン以上をそれぞれ占めていたが、他は一万トン以下の扱いであった。当時は百トン前後の小型船が主で石炭や米穀類を輸送していた。昭和三十九年になると、千葉公共物揚場には入港船隻数が二、〇七六隻と六年間に一二八パーセントも増加した。しかし、千葉港全体では六・五パーセントを占めるに過ぎない。総トン数では六年間に約三〇〇パーセントの増加率を示したが、全体では二パーセントであり、取扱い貨物量は、四一〇パーセントの増加率で、全体では二パーセントであった。また、貨物内容は土石が三三万五八二三トンと最高で、一万トン以上は、石油製品五万六三三トン、以下、石炭、鉄、麦、穀粉、塩、化学肥料などが続いており、この六年間に公共物揚場の利用は、急上昇をしたことがわかる。次に、昭和四十三年をみると、千葉公共物揚場に二、〇九七隻(内外国船三八隻)が入港した。これは四年間に二一隻の増加でしかない。これは千葉港全体の六パーセントに当たる。総トン数では、一四五パーセント増になり、全体の二・五パーセントである。これは船舶の大型化を意味する。また、外国船は三八隻であるが、その入港がみられるようになった。取扱い貨物量をみれば、四年間に四三パーセントの増加率を示した。また、外国貨物が二四パーセントを占めた。千葉公共岸壁の取扱いは全体の二パーセントである。また、貨物内容は、砂利、砂、石材が二〇万トンを越えて最も多く、次いで輸送機械が一九万五千トンと多い。更に原木が一〇万トンを越えている。一万トン以上の取扱い貨物は、石油製品、重油、食料工業品、石炭、非鉄金属、化学肥料、米、雑穀、豆などである。このような傾向は、昭和四十五年の場合と同様である。昭和四十五年は、二年間に隻数で一五パーセント、総トン数で二六パーセント、取扱い貨物量で三五パーセントそれぞれ増加した。
千葉港における商業港的役割りは、過去、現在とも非常に軽微なものである。しかし、千葉公共岸壁の利用はその実数において、急速な伸びを示している。しかし、工業港はこの高い伸び率をはるかに上まわる驚異的な発展をしていたのである。千葉市民の生活と直結する商業港的役割りのウエイトは、現在、千葉中央地区の中央公共埠頭が完成したときに高まっていくと考えられる。