千葉市は生産都市として発展しはじめてから、すでに十数年にして京葉臨海工業地帯の核心部となり、県下第二の工業都市となった。工業出荷額は昭和三十一年の二七八億円から昭和四十五年の四、〇八六億円となって、急速な伸びを示している。
年度 | 全工業 | 石油・石炭製品製造業 | 鉄鋼業 | 金属製品機械製造業 | 計 | 全工業にしめる割合 | |
従業員 | 人 | 人 | 人 | 人 | 人 | % | |
昭和30年 | 9,171 | 59 | 4,302 | 1,097 | 5,458 | 59.5 | |
35 | 18,418 | 105 | 10,480 | 2,148 | 12,733 | 69.1 | |
40 | 30,663 | 1,081 | 15,457 | 5,885 | 22,423 | 73.1 | |
45 | 38,929 | 1,055 | 16,262 | 9,289 | 26,606 | 68.3 | |
製造出荷額 | 億円 | 億円 | 億円 | 億円 | 億円 | % | |
昭和30年 | 210 | 1.1 | 137.0 | 8.6 | 146.7 | 69.9 | |
35 | 712 | 2.3 | 588.1 | 23.6 | 614.0 | 86.2 | |
40 | 1,839 | 139.5 | 1,345.1 | 121.9 | 1,606.5 | 87.3 | |
45 | 4,086 | 353.5 | 2,325.0 | 413.7 | 3,092.2 | 75.7 |
それにもかかわらず、千葉市の工業の将来には多くの問題点が提出されている。その主なものは「量的発展より質的・構造的な変革」を要請され、「工業労働力の雇用市場の拡大」について問題とされ、また「公害問題」などがある。公害問題については別に述べられるから、ここでは工業経済の問題について、その質的・構造的変革と工業労働力の雇用市場についてふれることにする。
千葉市の製造業の出荷額は、急速に伸びてきた。それは臨海部の川崎製鉄をはじめ食品コンビナートや、内陸部の千種・花島・長沼などの工業団地に金属・機械工業などの企業が進出したからである。しかし、製造出荷額からみると、重化学工業が七五パーセントを占め、その大部分を鉄鋼業が占めている。金属・機械工業の割合は小さく、かつての所得倍増計画において主導的な役割りが期待されている機械工業の進出は小さかった。これは千葉市だけの工業の特色ではなく、京葉臨海工業地帯の特質でもある。東京から千葉市の臨海部と内陸部に進出した企業は、京浜臨海工業地帯において広い工場用地を必要とする粗放的な生産部門であった。特に鉄鋼は全体の出荷額のうち、昭和三十六年には八三パーセントを占め、昭和四十五年には五七パーセントを占めている。臨海部の食品コンビナートの造成や内陸工業団地の造成によってかなり鉄鋼業の占める割合は低下した。これを対岸の日本鋼管のある川崎市や、神戸製鋼のある神戸市などにくらべると、機械工業の占める割合が鉄鋼業より高いことに格段の差がある。千葉市は鉄鋼都市ともいうべき単一業種の工業都市から抜け出していない。千葉市には第一次加工業として生産される鉄鋼を原料として、電気器具・車両工業・機械工業などの高次加工業が十分に発達していない。鋼材を原料とする付加価値の高い製造工業はいまだ少ない。あるいは公害の発生しない都市型工業として家具・出版・印刷や、情報機器・教育機器・電子応用機器などの知識集約型工業の進出が望まれている。
千葉市の工業従業員は、昭和三十年に約一万人、昭和四十五年に約三万九千人と増加した。このうち重化学工業の従業員は六二パーセントを占めている。重化学工業の従業員のうち、大部分は鉄鋼業の従業員である。重化学工業の労働力は、性別からいえば男子労働力が九〇数パーセントを占め、女子労働力の雇用は少ない。また学歴からみれば大学卒の雇用は少なく、旧制中学・新制高校卒や新制中学卒が多い。年齢からみれば若年労働力に集中している。工場の作業は技術革新によって単純工程に分化しているので、高学歴や中年齢層の労働力は特別に必要とはしない。
労働市場は工業開発によって拡大したといっても、選択的採用が強く、女子労働力と高学歴と中年齢層の労働力は、大量に労働力を必要とした重化学工業部門から採用されることは少なかった。また工場が臨海部と内陸部に増加したが、その工業労働力として地元千葉市から採用された労働力は大きくはなかった。川崎製鉄の従業員の三分の一は関西やその他の川崎製鉄の各工場からの配置転換工であり、また三分の一は東北・北関東地方から雇用され、残りの三分の一は千葉県各地から雇用された。京浜工業地帯から分散してきた工場もまた配置転換工を旧工場から千葉市の工場に送りこみ、地元千葉市からの採用は多くなかった。地元から採用された労働力は常用工としてより臨時工が多く、不安定賃金の労働者であった。これは特に建設業に臨時雇として雇用された。したがって、建設ブームが発生すると、農業労働力から臨時工・通勤出稼ぎとして吸収され、建設ブームが終わると農業に押しもどされた。この工業・建設業と農業との間の労働力の流出と逆流によって、農業は大きく変化した。
千葉市の工業開発が重化学工業にかたよっていることから、経済的な問題が多く提出される。鉄鋼都市であることは鉄鋼の好況、不況によって市の税収の増減、市内商業の浮沈が容易にあらわれる。また男子労働力は不足し、女子労働力は過剰である。特定業種の好況、不況によって失業者が増減し、社会的な不況地域となりやすい。千葉市の工業構造は単純的なものから複合的なものに変革されねばならない。このことは日本工業の素材センターとなっても、総合工業地帯とまで発達しないでいる京葉臨海工業地帯についてもいいうることである。