千葉市の人口増加は著しい。昭和三十年の人口は約二〇万人、昭和四十五年の人口は約四八万人、昭和五十五年には一〇一万人、昭和六十年には一一五万人と推計されている。昭和四十五年までの増加はその七五パーセントが社会増であり、大規模住宅団地の入居が大部分である。これらの人口の供給源は都内から四七パーセント、県内から二六パーセント、神奈川県から六パーセント、埼玉県から四パーセント、そのほかの各県から一七パーセントである。転入人口は都内を中心として南関東が過半を占めている。この傾向は将来も続くであろう。この人口増加を産業別人口からみれば、市内就業者は昭和四十年に約一五万人、昭和六十年に約四〇万人に増加する。第一次産業人口は昭和四十年から同六十年までに一万七千人から七千人へ、全体の一一・四パーセントから一・七パーセントへ減少する。第二次産業人口は四万九千人から一二万二千人へ、三二・八パーセントから三三・〇パーセントに増加する。第三次産業人口はもっとも増加して、八万四千人から二六万人へ、五五・八パーセントから六五・三パーセントとなる。これらの中には千葉市への通勤者も含まれて、千葉通勤圏は更に広がるだろう。注目すべきことは、東京通勤者の増加であろう。東京通勤者は昭和四十年に三万九千人、同六十年に二八万人となる。千葉市の人口は昭和六十年には住宅団地に居住する人口は半ばに達して五〇万人を越えるが、この人々は東京通勤者が多い。昭和六十年には千葉市の夜間就業人口が五五万人となるが、その五〇パーセントは市外通勤者で東京通勤者が多い。
千葉市の将来人口の問題は多角的である。増加する人口は若い年齢層であるから、青年都市の千葉といいうる。増加する人口は東京を中心とする南関東から流入し、千葉市民の大部分を占めるから、千葉市の伝統的文化は無視され、しかも大規模な住宅団地に居住するから、コミュニティ形成に関心が薄い。増加する人口は東京文化を身につけているので、千葉市は東京文化に埋没する。行政需要は特に強く、保守政治の千葉市の政治的動向を変えていくから、行政上の性格を変えなければならない。このように社会・文化・政治上に多くの問題を提出されるが、経済的には、昭和四十五年から一〇年後の昭和五十五年に千葉市の人口が二倍になって、人口が百万人をこえることであろう。急速に人口が増加するということに対して、千葉市は財政的にむずかしい立場にある。例えば人口一万人の増加に小学校を一校新設し、人口二万人の増加に中学校を一校新設し、人口三万人の増加に高校を一校新設することになる。これらの学校新設費に一〇億円から十数億円を必要としよう。都市人口規模に応ずるさまざまな生活基盤や社会・文化施設の設置もまた莫大な支出となる。昭和四十七年に人口数五二万人、世帯数一五万戸、これからの市民税額は一三〇億円、市民一人当たりの税負担額は二万五〇五七円である。これに対して市民一人当たりの還元額は四万五四三〇円となっている。百万都市の横浜市・名古屋市・京都市・神戸市などの財政支出の平均をみれば、千葉市は教育費において特別に高率を占め、民生・衛生費、産業経済費、土木費、その他において低率である。百万都市の建設のために大きな財政支出ができるために、税収を増加できる経済開発をゆるがせにはできない。
しかしながら、従来どおりの経済開発は、市民から強い軌道修正が要求されているから、経済開発に新局面を開くことが必要であろう。それよりも根本的に、従来どおりの膨張主義の市政に強い反省が大切であろう。
昭和45年 | 昭和47~60年累計 | 横浜・神戸・京都・名古屋の平均構成比 | |||
歳出額 | 構成比 | 歳出額 | 構成比 | ||
民生・衛生費 | 億円 | % | 億円 | % | % |
33 | 18.5 | 1,699 | 20.4 | 20.5 | |
農林水産・商工費 | 5 | 2.8 | 290 | 3.5 | 3.8 |
土木費 | 50 | 28.2 | 2,534 | 30.4 | 31.6 |
教育費 | 46 | 25.5 | 2,072 | 24.8 | 13.5 |
その他 | 45 | 25.0 | 1,742 | 20.9 | 30.6 |
計 | 179 | 100.0 | 8,337 | 100.0 | 100.0 |
注 1 昭和47~60年累計には人件費2,763億円はふくまない
2 大都市財政平均構成比は昭和45年の当初予算である