戦後、千葉市が急激に発展したチャンスは何かといえば、それは消費都市から生産都市への転換を図ったことであろう。戦時中、一たんは人口が一一万台にふえたものの、二度にわたる大きな戦災と被災による多くの死者や転出などによって九万台に減り、町はほとんど焼け野原となってしまった。第五章第十三節第五項「戦災と敗戦」にあるとおり、二三〇万平方メートル(約七〇万坪)という地域を焼失したのであるから、復興は並たいていの苦労ではなかった。
艱難辛苦という言葉があるが、まさに、そのとおりであった。復興にあたっては、市当局をはじめ、政府、県の援助・協力はもとよりであるが市民の努力も忘れてはならないことの一つである。
戦災直後、市内に残った主な建物といえば千葉中央署(都川そばにあったもので昭和五年に新築=現県警別館、四十八年三月から中央港へ移転)、県庁、県立図書館、千葉医科大学付属病院(一部は戦災で焼失)、千葉銀行本店(新館だけ焼失)、千葉師範学校(現文化会館のところにあった)、千葉教育会館(昭和四十年に改築)などであろう。これが今日のような大発展をするとは、だれ一人として予想もしなかったといってよい。
発展の端緒は、昭和二十五年に川崎製鉄千葉製鉄所を誘致したことであろう。現在は公害対策で市民から苦情が出されているが、当時は県当局はもとより、市当局や各方面が双手をあげて同製鉄所の誘致に全力を尽くしたといってよい。
戦後の千葉は「イモ県」といわれたほどの農産県であり、工業施設は蘇我の埋立地にあった日立航空機工場が閉鎖後、これといった施設はなかったのである。わずかに蘇我地域に澱粉工場と日立航空の施設を使っていた日興工業などがあったにすぎなかった。
川鉄千葉製鉄所の誘致については、『市政だより』及び『西山弥太郎伝』、千葉市発行の『千葉市に輝く人』の中にある「宮内三朗市長」の項をみてもらえばよくわかるが、宮内前市長は、当初、イトヘン景気(戦後、衣類不足で繊維産業が繁栄していたので、イトヘン景気といわれた。)に着目、大日本紡績の誘致に努力したが、すでに山口県への進出が決まっていたので、川鉄の誘致に努力した。そのほか、繊維メーカーの誘致を接衝したが、全く相手にされなかったほど千葉市は田舎町とされていた。
発展の端緒として川崎製鉄の誘致とともに、千葉港の整備をあげなければなるまい。千葉港の整備については明治四十三年から有吉忠一知事が、大構想をたてて整備を計画したのであるが、昭和十二、三年ごろから日本全体が戦時体制への道を歩むとともに、同計画はいつしか沙汰やみとなり、川鉄の誘致後、二十六年に県は千葉港建設局を新設して、本格的に千葉港の建設に着手した。
こうして、川鉄の誘致と千葉港の建設によって、消費都市千葉市、田舎町千葉市は、面目を一新するようになった。川鉄の建設が始まるとともに人口の流入が激しくなり、建設業者、下請け業者を初め自動車の流入も日を追って増加していった。
川鉄の建設工事着手のころ、果たして千葉製鉄所はできるのかどうかと疑問視されたほど各種のエピソードがあった。なにしろ、当時の金にして洗鋼一貫メーカーの大工場をつくるには三百億円は投下しなければ完成しないと考えられていたからである。
昭和二十六年に工場の建設に着手したが、二十七年の千葉市の当初予算は、わずか四億円余という数字からすれば、たいへんな計画であった。
官内千葉市長は、生前から千葉市を発展させるために全力投球をした人であるが、そのためには港をつくること、そして大工場を誘致して税収をあげ、この金を市の建設、発展のために投入しなければ、市の発展はありえないと機会あるごとに語っていた。宮内前市長が市長に当選した二十五年五月当時、市の戦災復興事業は財源難から遅々として進まず、日夜その打開策に心血を注いでいた。
工場が建設されて人口さえふえれば、事業場からの税収と市内商店街の購買力増大によって、市の発展はまちがいないと考えられていた。
現在でこそ首都圏のベッド・タウンとして躍進を遂げているが、川鉄進出当時の千葉市は、都内からは見向きもされない有様だった。
こうして二十七年ごろから千葉市は具体的に発展のきっかけをつかんだといえる。
更に千葉市発展の土台をつくったものといえば、戦災復興事業に伴う区画整理事業の実施による都市計画事業の進展と、これに関連して国鉄千葉駅と同本千葉駅を移転させたこと、更に京成千葉駅を国鉄本千葉駅跡へ移し、メインストリートを広くとったことであろう。これも現在では交通ラッシュによって狭くなり、慢性的な交通渋滞をきたしているが、国鉄千葉駅開設当時の新聞報道をみると、駅前広場などは「あんなに広いスペースをとってどうするのか」と疑問を投げかけられたほどであった。
いま一つは、首都圏に近接する地理的好条件に恵まれて、交通面の強化、改善が行われたことである。京葉有料道路の開通、東京――千葉間の国鉄輸送体系の改善、更に人口増などによって各デパート、都市銀行などの相次ぐ進出が行われ、市内はめざましい変ぼうを遂げたのである。
特に住宅団地などの建設に伴って、都内からの流入人口が激増した。往時を知る人たちにとっては、千葉市の三十五年以降の変ぼうには、口を揃えて驚嘆し、それを肯定しない人はないであろう。