戦後加納市長が参議院議員に出馬のあと、宮内三朗前市長が市長に当選し就任した。このときの市長選は多賀芳郎、大沢中、山口尚の四名の争いであったが、次点に四千余票の差をつけて当選した。宮内市長は以来五期、二〇年間にわたって市政を担当した。
この間、二十一年十二月、助役に就任した平山滋春は、四期一六年間在任したが、三十七年十二月、任期満了とともに辞任した。平山助役も宮内市長とともに戦後の市政を担当した功労者の一人であろう。二十四年に小笹精一が第二助役に就任しているが、選挙関係問題で辞任している。
平山助役のあとは、三十七年十二月、第一助役に荒木和成、第二助役に佐久間正夫が選ばれて就任し、その後、四十五年五月の選挙で官内市長引退のあと新市長に荒木和成が当選した。
このときの市長選は荒木和成、吉原鉄治、佐久間彊(つとむ)、星野昌世、田畑宗一の五名が立候補し、激しい選挙戦となった。結果は次のとおりで、荒木和成の当選となった。
四万四〇三五 荒木和成 無新
三万七二七一 吉原鉄治 自新
二万四六二六 佐久間彊 無新
二万四一一五 星野昌世 社新
一万〇四八八 田畑宗一 共新
このあと、市に名誉市民条例が制定され、宮内三朗が同年六月の市議会で名誉市民第一号に推せんされた。また、佐久間正夫助役は、中途で辞任し、その後県議選に出馬、現在県会議員となっている。
市会議員選挙は、二十二年、二十六年、三十年、三十四年、三十八年、四十二年、四十六年と戦後七回行われてきた。歴代市会議員の名簿を掲載することが本旨であろうが、議会の方は、いずれ議会史も出されることであろうから、氏名は別項に記載のほかは省略する。
定数は二十二年、二十六年が三六名、三十年が四〇名、三十四年が四一名、三十八年には四四名となり、四十二年には四八名、四十六年には五二名にそれぞれ改正されている。
この間、合併によって補充選挙や、一区、二区、に分けて選挙が実施されたこともあるが、いずれにしても政党の多党化によって議員の政党別人数も、かなり変遷をとげている。
例えば、三十四年には定数四一名に対し無所属が圧倒的に多く三一名であった。ついで社会党七名、自民党一名、共産党一名の内わけであった。それが三十八年の選挙では無所属二七、自由民主党六、公明政治連盟五、社会党四、民主社会党一、共産党一、計四四議席となっている。
このとき、千葉市議会に初めて婦人議員が誕生し、無所属の斉藤雅議員が紅一点として当選した。戦後一八年で初めて女性議員の誕生で、ほかの大都市に比べかなり遅れて実現したことになる。
ついで四十二年は、無所属二〇、自由民主党一四、公明党七、社会党四、共産党三、計四八議席となっている。四十六年に行われた選挙では一躍定数が四人ふえて五〇台の五二議席となったが、四十八年三月現在の会派別は、市民クラブ一八、市政会九、革新クラブ七、公明党七、共産党五、社会党五、無所属一となっている。党派別をみると無所属二四、自民党九、公明党七、社会党五、共産党五、民社党二となっている(議会事務局の資料)。
四十八年三月現在の市議会議員一覧
海保伝吉 実川義明 西巻義通 小川義人 市原治四郎
大沢豊 大江新平 石原精 安藤定男 石橋作治
松井孝安 花沢清治 重村旦 小林義造 市原一郎
武田裕允 亀田佐太郎 石橋春司 飯高治雄 鴻崎豊隆
石井武一 町野五郎衛 山本力蔵 沢本七郎 萩田福太郎
渡辺喜利 是沢正己 藤井武徳 能勢英惟 田中三郎
斉藤俊一 石井徳造 大塚常好 鴇田厚 市原安喜雄
田中信夫 白井与三郎 斉藤雅 岩品政男 野本信正
柴田照治 市原豊 中原正義 羽田直政 林三蔵
高橋与一 林通康 木村嘉信 相原徳治 小林哲
林田伍郎 川野太 (議席順)