市の国保事業は、三十四年十月に県下全市町村のトップを切って実施しているが、当時の保険税は四人家族で年収一五万円までのものが二、五四〇円、五人家族で三〇万円の年収者は五、三二〇円、六人家族で五〇万円までのものは八、九五〇円となっていた。給付は被保険者は五割となっていた。
それも三十九年四月一日からは家族も含めて七割給付に改正された。同事業実施のときは、法律的には三十六年四月一日から実施すればよかったが、二年繰り上げて早く実施している。
また市の事業としては、交通災害共済制度がある。これは交通事故の多発から考えられたもので、スタートは四十二年四月一日からであるが、二カ月後の六月末には早くも市民の五・四%が加入し、最初としてはまあまあの成果であった。
掛け金は一年間に三六〇円で、交通事故による被害にあった場合は、最高五〇万円から最低二千円までを補償するもの。この掛け金も翌四十三年四月からは二六〇円に値下げされている。四十八年三月現在の加入者は一五万五〇五六人となっている。
住居表示制度の実施も市政の上では大事業の一つであった。三十九年一月一日からスタートし、第一次は今井町、千葉寺、宮崎町、弥生町、穴川町、轟町などが実施された。
千葉市は戦後、軍用地の住宅地化や開発によって同番地の住宅が多数あった。このため郵便業務などの面で苦情が多かったので、法律にもとづいて住居表示を実施したわけである。
第二次(三十九年三月)は汐見丘、春日、松波など、第三次(四十年一月)は小中台、稲毛、花園周辺など、第四次(四十一年一月)は椿森、黒砂、稲毛東、稲丘、緑町、登戸の一部などを実施し、引きつづき四十二、四十三、四十四、四十五年と実施している。
土地の登記台帳は旧番地をそのまま使用しているが、それ以外はすべてこの住居表示に改められている。しかし、この住居表示によって市内から吾妻町など思い出深い町名が姿を消したことを残念がる意見も少なくない。
また、市民と市役所のパイプ役を担っている「市政だより」が四十二年四月一日から月二回発行されて新聞折込みになっている(それまでは月一回)。ついで四十八年四月一日からは月三回にふやされたし、四十三年五月からは「点字市政だより」も発行されている。
それと発展を物語るものとして、公示地価の値上がりがある。二十年九月二十一日『千葉県報』によると、要町、栄町、道場、本町、吾妻町、本千葉、長洲町、院内町、港町、道場北町、神明町、新宿町、新町、新田町、弁天町、祐光町、市場町など一級宅地が一坪(三・三平方メートル)九〇銭と出ている。
これに対し四十八年四月一日に発表された土地鑑定委員会の資料によると、一平方メートル当たり中央三丁目(旧吾妻町)で二六万五千円、新田町一〇二ノ二で一三万円、登戸四丁目で六万六千円、新町二三五ノ二八のところは、九二万円という値段がつけられている。