周辺町村合併の推移

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 昭和十年総武線の電化区間が千葉市まで伸びると、市は首都圏として発展のきっかけをつかんだ。これとともに市域の拡大による都市形成の必要に迫られた。

 昭和七年、市当局は都市計画地域を決めたが、同案は市域外の都村、都賀村など当時の市域の一・七倍を対象にし、推定人口は市人口の三倍、九万六千余人という構想をたてた。

 そこで隣接町村合併の第一弾が提示され、まず白羽の矢は検見川・蘇我両町に向けられた。千葉市から呼びかける形で検討が進められた。これは昭和九年(一九三四)十二月に就任した永井準一郎市長によって推進されたもので、合併にもっとも乗り気であった検見川町を皮切りに論議がわいた。

 しかし、蘇我町は部落内に異論があって足ぶみ状態となった。このため一時は計画倒れになるのではないかと危ぶまれたものの、昭和十一年になって検見川町が町議会で千葉市への合併を決議した。これによって合併は大きく前進した。同年九月二十八日、千葉市議会でも検見川町、蘇我町の合併意見書を決定、これを県知事に提出、更に十一月十一日に県は検見川、蘇我両町のほか、新たに都賀・都両村の代表を招いて五市町村の合併を勧説した。ついで十二月八日、合同委員会を開いて合併問題を検討した。同委員会のメンバーはつぎのとおり。

  〔千葉市〕一ノ瀬房之助(市会議長)岩瀬甚蔵(同副議長)

  〔蘇我町〕高石慎(町議、漁業組合長)小河原隆次郎(町議)鴻崎豊吉(同)水野豊吉(漁業組合長)久能鯛之助(町議)石川市蔵(同)須藤武雄(区長)

  〔都村〕田野寛(村議)足立幸吉良(同)島倉三郎(同)千脇茂三郎(同)中村光太郎(同)

  〔都賀村〕中村清右衛門(村議)湯浅幹(同)黒川作蔵(同)笠川市造(同)増田栄一(県議)松本保(元村長)

  〔検見川町〕植草久造(町議)斉藤省三(同)本多保(同)秋元佐五右衛門(同)高井純(元町議)古川源之助(町議)


 合同委員会で合併に関する協調事項などを調査研究した結果、昭和十二年(一九三七)一月に最終協議会を開いて五市町村の合併条件を決めた。合併期日は同年二月十一日とし、同日千葉神社で合併の奉告祭を行ったあと県教育会館で祝賀会、県庁公園で園遊会を行う一方、全市の小学生五千名による合併祝賀旗行列を実施して、合併を祝った。

 この合併によって市の戸数は一万六四三八戸、人口八万五五四九人となった。合併前の五市町村の戸数、人口はつぎのとおりである(昭和十年『国勢調査』)。

 千葉市 一一、九三八戸 五七、四四五人

 検見川町 一、六八〇戸  九、〇九四人

 都賀村  一、〇二八戸  七、九八七人

 都村     八九七戸  六、〇九五人

 蘇我町    八九五戸  四、九二三人

 合併後の市の耕作地反別は五二二町五反歩から二、七四一町一反歩に拡大、山林、原野、雑種地を加えると一、〇二七町五反歩から五、〇三九町九反歩にふえた。