千城村合併

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 太平洋戦争末期を迎えて、いよいよ敗色濃厚となった昭和十九年(一九四四)二月十日に千城村の合併が決まった。千城村を合併したのは、戦時下をものともせぬ積極行政と軍事要請による市域拡大など軍都千葉市の形成を裏づけるものであった。

 一方、合併の決まった千城村は、もとは大宮、川戸、仁戸名、小倉、坂月、大草、金親、星久喜の八村及び寒川、千葉寺両村の入会地を統合して生まれた村であった。また、同地は往時千葉氏池田郷の地でもあり、農業を生活の主力としていた。名称は地区名に「城」の字を付した地名が多かったところからつけられたもので、人口二、七三三人、戸数四八六戸、総面積一、四九四・六五町歩であった(『県町村合併史』)。

 ついで戦後の昭和二十一年(一九四六)復興都市計画案がつくられ、都市造りが進められた。その結果、昭和二十七年には人口一二万七六三〇人、世帯数二万七〇六〇戸となり全国二三〇都市のうち四〇位に躍進した。