犢橋村の合併が持ち上がったのは昭和二十八年七月七日のことであった。同村議会で規模適正審議会条例を制定、七人の委員を選出、合併についての調査研究に当たった。そうした際、同年十一月十七日津田沼町(白鳥義三郎町長)でも幕張町及び犢橋村との合併に熱意を示し、合併に関する協議会を開き、数次にわたる折衝を続けていた。村長、村議会議長ら村首脳部は津田沼町との合併に傾きかけたが、当時近隣町村を合併し、市域の拡大に熱意を示していた千葉市でも、強力に誘いの申し入れをした。
このため村当局は村民の動向をつかむ必要を痛感、各部落ごとに座談会や説明会を開催して住民の意向を確めた。その結果、津田沼、幕張を含めた三町村合併は、ひとまずタナ上げとすることになった。三町村合併とは、津田沼町を拠点に新市(習志野市)を建設しようというもので、同計画には県も乗り気であった。
ところが犢橋村民の大勢は千葉市へ合併の方向に傾き、翌二十九年二月九日、千葉市役所で千葉市と犢橋村の合併合同委員会を開き、ついで三月二十二日には犢橋村議会全員協議会で千葉市への合併方針を決定、宮内三朗前市長と和田平武市会議長に申し入れた。
これより先、犢橋村の合併については、八千代町が異常な熱意を示し、昭和二十八年ごろから同村首脳部に合併を働きかけていた。これに賛意を表した村民もあって、村議会が千葉市との合併を決議したことに鋭い批判を浴びせた。犢橋村下横戸、北柏井、柏井新田の三部落民は、この年の五月二十四日「分村して八千代町に編入したい」旨の請願書を村長と村議会に提出、千葉市合併反対の立場をとった。
しかし大勢に影響なしとみた村議会議長は翌二十五日に村議会を招集、賛成一五、反対三の圧倒的多数をもって千葉市との合併を決めた。
一方、千葉市側も五月二十一日に市議会町村調査委員会を開き、幕張、犢橋、生浜の三町村合併を審議し、七月一日を目標に三町村合併の大構想のもとに平山滋春第一助役を長とする「臨時合併調査局」を新設し、五月二十七日にまず犢橋村の編入を決定した。
五月はちょうど宮内市長が再選を果たした月でもあり、合併は宮内市長の「大千葉市建設」構想実現の第一歩でもあった。
千葉市・犢橋村両議会の合併議決後も犢橋村の反対村民らは分村を主張、中でも柏井、下横戸両部落代表である松戸豊ら六〇人は六月二日、大挙して県庁を訪れ、柴田知事と会って合併反対の直接談判にのぞんだ。反対陳情の要旨は大要つぎのとおりである。
千葉市との合併に際し、犢橋村の税金を全部還元して道路や公民館の建設に当てる約束で、旧犢橋村の五カ年計画を立案したが、柏井・下横戸両部落に対する事業は不十分で極めて冷遇されている。改善を村長や村議会に申し入れたが実現しなかった。従って千葉市編入は反対である。八千代町と合併させて欲しい。
柴田知事は合併が議決ずみであるところから仲裁はできないとし、当事者間の円満解決を促した。この際、八千代町も町議会全員協議会で両部落の吸収合併を決議、県に協力を要請するなど二つの市町で合併決議という異例の事態となり話題となった。犢橋村の合併により千葉市は総務・民生・経済部の統合を軸とした機構改革を行う一方、犢橋村の町名を当時次のように変更した。
犢橋、花島、柏井、横戸、宇那谷、長沼、小深、千種、三角、長沼原、六方山王(いずれも旧大字をそのまま使用)
犢橋村の当時の人口は五、二七一人、戸数九四七戸、面積二八・四八平方キロメートルであった。合併後、市の人口は一三万九一一五人、戸数二万九二三五戸、総面積一一四・七八平方キロメートルとなった(昭和二十九年九月二十二日『千葉新聞』)。