幕張町の合併は、昭和十二年に検見川町など四カ町村を合併していらいの懸案であった。合併問題が再燃、具体化したのは昭和二十七年十月ごろのことで、幕張町代表と宮内市長との会談が発端であった。折衝は意外にスムーズに進み、一時は急速に実現するかにみえた。しかし、翌二十八年六月、幕張町に合併特別委員会が設置され、合併に関する調査研究を続けるうちに雲行きがあやしくなってきた。
犢橋村同様、津田沼町が幕張町を含めた習志野市建設を勧誘したことに起因するものだが、幕張町が千葉市との合併に傾くに従って利害が対立し、千葉市合併派と習志野市建設派(津田沼町と合併)に分裂、紛争はエスカレートしていった。
千葉市との合併に積極的であったのは、主として南部海岸寄り(馬加・武石などの部落)の住民で、いち早く「千葉市合併促進委員会」を結成して体制を固めた。一方、実籾地区を拠点とする北部地区(安生津、愛宕部落など)は津田沼町合併派に回り、「習志野市建設期成同盟」を結成して真っ向から対立した。町内の対立は、そのまま町議会にも飛び火し千葉市派、習志野市派に二分、各種団体も加わって合併問題は白熱の様相となった。
事態を憂慮した町当局は、県に打開策を訴えるとともに、昭和二十九年五月十三日、町議会を開催し合併案件をはかったところ、賛成十三、反対九、保留二で千葉市合併を議決した。この採決が反対運動に油を注ぐ結果となり、反対運動は一段と険悪となった。議決に先だち県当局は、五月十一日幕張町当局を招いて、つぎの二点を勧奨した。
①千葉市または津田沼町に全町一括して合併することが望ましいが仮に円満な議決が得られなかった場合は分町も考えに入れよ②町議会で議決した結果、僅差の場合は町内の紛糾を一層激化させるので慎重に対処してほしい。
しかし、町では採決に踏み切り、千葉市派の勝利となった。県は同月二十五日再び関係者を集めて協議し、席上「千葉市合併派を除く住民投票を行ない、その結果により町議会の議決を再検討してはどうか」という調停案を打ち出した。しかし、調停案どおり住民投票をした場合、投票に敗れた側はますます過激な運動に走ることも考えられ、県当局も収拾策に苦慮した(『千葉新聞』)。
北部住民が千葉市合併に反対した理由は、①交通、文化、産業などあらゆる面で千葉市と性質を異にし、津田沼町と直続している。②町議会の議決は千葉市合併派が圧力を加えて一部町民の意思を無視した。――の二点をあげ、連日のように県に陳情を重ねた。調停会議の開かれた五月二十五日には「千葉市合併反対」、「分町決議」ののぼりやはちまき、たすきがけで町民二百余人が県庁に押しかけた。
二十五日の県の調停案は関係市町とも一応受諾し、千葉市は同二十七日の市議会で合併を決議する予定であったが、住民投票の結果が出るまで延期することにした。ところが二十六日に幕張の長沢町長は態度を急変させ「県の調停案はのめない、したがって町議会の議決も全面的に練り直す」旨の申し入れを千葉市側に寄せるなど複雑な事態に進展した。
このため千葉市議会は予定を元に戻し、同二十八日に全員協議会を開いて幕張、犢橋両町村の合併を決議し、未解決の問題については県の調停委に一任という結論を出した。
同じ日、習志野市建設期成同盟の実籾・長作・天戸・愛宕・安生津・東栄・西栄・屋敷八部落二百人の町民が大挙して反対陳情に立ち上り、そのうち幹部一〇人によるハンガーストライキに入った。また、これまでくすぶり続けていた千葉市合併反対派の犢橋村民も便乗し、柏井、下横戸部落民約二〇人が「八千代町に編入させよ」との陳情を行うなど当時は騒然とした空気に包まれた。
当時の模様を昭和二十九年十二月三十日の『千葉新聞』は「県都この一年・話題を拾う」でつぎのように報道している。
千葉市の呼びかけに応じて犢橋村は全村が市合併に傾いた。幕張町は町議会と町民を習志野派と千葉市派に二分、連日県庁に陳情を行なう騒ぎが五月に起こり、暴力事件、買収事件を警察が捜査に乗り出すほどだった。そのうえ合併問題では全国初めてのハンストが習志野派によって行なわれた。結局、幕張町は一度(七月一日)千葉市に全町が合併し、さらに八月一日に北部五部落を分町して習志野市を建設。翌二日に習志野市の一部を分離して再び千葉市の区域とするという妥協策をとった。これにより、迷い子になった幕張町天戸、長作の両地区は幕張町→千葉市→習志野市→千葉市と籍が四転するなど合併問題のむづかしさを浮き彫りにした。そのうえ分町合併のため学校分割の紛争が九月一日の新学期に当たって発生し、集団休校の一歩手前の危機があった。すなわち幕張町北部地区にある中学校は習志野市に、小学校は千葉市に属したため、二学期になると両市の市民の子弟が同じ学校に通学することになった。基本線として分離を主張する千葉市側と分離を延期したい習志野市側が激しく対立、深夜におよぶ折衝が続いた。子供たちまで巻き添えにした町村合併紛争も、半月後の九月十四日に、校舎と校庭は昭和三十年(一九五五)度まで共同使用すること、教職員、学童を分離することで話し合いが成立、同月二十五日分離されたが、しこりはなお続いている。(後略)
合併紛争の早期解決のため、県は町村合併促進審議会等を通じ、地元選出の国会議員に調停を依頼したが妥結に至らず、更に地元選出の県会議員も調停役に引き出し種々のあっせん工作が行われた。
結局、昭和二十九年七月六日幕張町は千葉市に合併、同年八月一日に千葉市旧幕張地区の一部が津田沼町と合併して習志野市を建設(県内で一六番目の市)、ついで八月二十八日に天戸、長作など千葉市に再編入という変則合併となった。幕張町の合併後、市では同町名をつぎのとおり変更した。
幕張一~六丁目(旧大字馬加一区~五区を改称)武石町一~二丁目(旧大字武石を二分)長作、天戸。
当時幕張町の人口は一万九〇九四人、世帯数四、〇二四世帯、面積一五・三九平方キロメートル。合併によって千葉市の人口は一七万四八五四人、世帯数三万八三四五世帯となった(昭和二十九年九月『千葉新聞』)。