生浜、椎名、誉田の合併

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 千葉郡生浜、椎名、誉田の三町村合併は県当局の策定に基づくもので、生浜町合併については、千葉市が早くから着目し、昭和二十八年十二月に同町へ申し入れるなど幕張への合併申し入れより早かった。しかも関係町村の大部分が千葉市合併に乗り気とあって、勧奨にあたった県当局もすんなり合併にこぎつけるものと期待していた。

 ところが幕張町の分町騒ぎと生浜町議会内部に「合併はよいが海岸を向こう二〇年間埋め立てないことを条件にしてほしい」旨の要望が出始めたことから情勢は一転し、暗礁に乗りあげてしまった。千葉市が臨海都市建設の一環として打ち出していた海面埋立計画を知った漁民や町民が「漁場を失うのは困る」と切り出したためで、生浜漁協関係漁民は自分たちの主張を各方面に陳情していた。

 当時、生浜町をめぐる合併勧誘は多く、千葉市のほか、市原郡八幡宿や菊間村の三町村合併案や千葉郡椎名村、誉田村との三町村合併案などの合併案があり、町議会や町当局が協議を重ねるとともに、合併の町民大会が開かれたほどであった。

旧生浜町役場(現生浜地区市民センター)

 昭和二十八年、町村合併促進法が施行され、周辺市町村からの呼びかけも重なったので、生浜町としては同年十一月町議会議員一〇名による「規模適正調査特別委員会」を設置、ついで昭和二十九年四月には町長、助役、町議会議長、各種団体長、役員、有識者らをもって「規模合理化委員会」を組織し、町は合併実施計画の策定及び住民への啓発に力を入れた。

 委員会は前後七回にわたる会議と数度の座談会によって住民の動向を把握した。その結果、千葉市との合併を好条件とみて合併条件を策定し、委員会は同年五月発展的に解消し、代わって町議会が交渉に当たった。

 翌六月七日に千葉市を訪れた生浜町当局は「編入二〇年以内は、市側において発動的に漁場喪失のおそれのある事業は行わないことの確約を求める」旨の条件を添えて合併を申し入れた。

 これに対し千葉市側は「埋立のできない合併は無意味」として合併そのものに失望、折りから起こった幕張町の分町騒ぎもからんで「合併はこりごり」といったムードもあった。しかし、千葉市長、市議会議長名によって「漁業権は合併とは別個に考慮したい。」旨を生浜町側に回答したが、これが漁民(村田地区)の態度を一段と硬化させ合併問題はタナ上げされた形となった。

 ところが、昭和二十九年九月に入ると生浜町議会の全員協議会は、「直ちに埋立をしないとの条件で合併に応じてはどうか。」とやや態度を軟化、その足で千葉市側に打診してきた。しかし、千葉市は蘇我海岸の埋め立て交渉に忙殺されている最中であることを理由に即答を避け、まとまりかけていた両市町の合併は宙に浮いてしまった。

 そこで、あわてた生浜町は町議会で合併を決議し、千葉市に編入した方が得策であると判断した。だが、漁民の意向を無視することもできず、千葉市側の蘇我海岸の埋立交渉の終結を待って善後策を練ることになった。

 幸い翌十月になって蘇我海岸の埋立交渉が妥結したので、生浜町は、同月中に地元の代議士を通じて、早急に合併を具体化するよう千葉市に申し入れた。

 千葉市側は「全町一致なら来春実現をメドに検討しよう。」と確約し、申し入れを了解した。漁民の反対論が高まる中で、あえて千葉市への合併を固執した生浜町当局及び町議会の内情は、町民の大多数が合併に傾いている点のほか、北側の蘇我地先が埋立てられ、南側の八幡宿も干拓工事を実施中とあって、安易に埋立を拒否すれば、京葉工業地帯の〝孤児〟になることを懸念したためでもあった。

 こうした合併を背景に、こんどは千葉市隣接の椎名・誉田の両村が「生浜町に合併の気運があるなら当方も一緒に……」と名のりをあげ、県、千葉市、それに生浜町に同時合併の猛運動を展開した。

旧椎名村役場(現椎名地区市民センター)
旧誉田村役場(現誉田地区市民センター)

 椎名・誉田両村の熱望にたじたじとなった県は、昭和二十九年十月二十三日、千葉市に対し生浜町を含めた三町村合併を勧告し、関係市町村の意見をきいた。このとき椎名・誉田両村はすでに村議会で千葉市への合併を決議して、千葉市の態度待ちとなっていた。

 県の勧告をうけた千葉市は、「生浜町の合併が妥結しない限り応じられない。」とつっぱねた。また生浜町に対しても「海面埋立に条件をつけないこと」及び全町一体による合併の基本線を前面に打ち出し、生浜町の出方を待った。それでも椎名・誉田両村は執ように合併を陳情した。

 このため県当局は十一月十六日、宮内千葉市長と山本秀一市議会議長らを招き再折衝する一方、生浜町に対しても合併収拾策を呼びかけた。結局、同月二十九日に生浜町の合併上障害となっていた海面埋立問題については、「埋立と合併とは別問題」と主張する千葉市のいい分を全面的に受け入れ、その旨を同町漁協に提出した。同漁協は翌三十日に漁民大会を開いて合併のいきさつを説明し、ようやく漁民の賛同をとりつけた。

 同じ日に生浜町、誉田村、椎名村の三町村はそれぞれ議会を開き、千葉市合併を議決し、その日のうちに生浜町長、同町議会議長、誉田村長、同村議会議長、椎名村長、同村議会議長らが千葉市を訪れ、早期合併の実現を申し入れた。

 三カ町村からの申し入れを受けた千葉市は、年内いっぱい現地(三町村)視察団を派遣したり、定例市議会で審議を重ねたが、議員の中には「合併が千葉市のプラスになるか否か」を主張するものもあって結論は越年してしまった。

 この間、年末商戦にことよせて生浜町が千葉市議会の全議員に商品券(総額七万二千八百円相当)を贈るという珍事が発生、受けとった市議会側が返還するハプニングもあった。

 明けて昭和三十年(一九五五)一月、千葉市は市議会全体会議を開き、三町村合併の具体策を協議の結果、二月十一日をメドに合併を実現させることに一致、さっそく市議会を招集し、一月十七日には合併を可決した。

 同市議会には誉田村代表も特別に出席「満場一致で合併が成立したことを喜ぶ」旨の感謝の意を表明している。昭和二十八年の合併論争いらい丸一年余の決着であった。合併当時の三町村の概要はつぎのとおりである。

  〔生浜町〕人口五、八一二 世帯数一、〇六〇世帯 面積三・七平方キロメートル 主産業は米麦のほかノリ、アサリ、ハマグリなどの貝類。

  〔誉田村〕人口七、六八五人 世帯数一、三七四世帯 面積二四・一平方キロメートル 主産業は麦、芋類、雑穀、木材、そ菜、落花生など。

  〔椎名村〕人口二、五六七人 世帯数四一七世帯 面積七・九平方キロメートル 主産業は米、麦、そ菜、薪、花きなど。

 この合併により千葉市は人口一九万一五一三人、世帯数四万四二八〇、総面積一六〇・七平方キロメートルとなった(昭和三十年一月十五日付『千葉新聞』)。

 また三町村役場は支所に改称、生浜支所長、椎名支所長、誉田支所長には前町村長がそれぞれ発令された。