泉町、土気町合併

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 昭和二十八年の町村合併促進法の施行いらい、千葉郡で残った町は八千代町と泉町だけであった。泉町は昭和三十年三月三十一日に近隣の白井・更科両村が合併してできた新町であった。

旧泉町役場

 白井・更科両村は、明治二十二年の町村制施行のときにできた村で、二村とも人口四、五千ていどという小村であったので近代的自治行政を推進する上で問題を抱えていた。

 合併気運の高まった昭和二十八年六月ごろ白井、更科両村とも犢橋村同様千葉市編入の想定が打ち出されたが、関係住民、首脳部とも気乗り薄で合併案はたな上げされてしまった。

 翌二十九年二月、更科村長、白井村長らをメンバーとした二村合併促進協議会を組織し、泉町の建設に当たった。

 同協議会発足後、十数回にわたって話し合いを続けたが、新町の庁舎位置をめぐって紛糾し、ごたごたを続けた。そのうち「町役場を白井村におく代償として更科村に一五〇坪(四九五平方メートル)の公民館を建設する。」ことで意見がまとまり、約一年間の紛争後、新町が誕生した。

 泉町が発足して間もなく、かつて話題にのぼった千葉市合併論が再燃し、発展途上にある千葉市への編入を得策とみた泉町長は、合併運動に本腰を入れ始めた。しかし当時の千葉市は市原郡を吸収合併して百万都市建設の大構想を実現しようと折衝を重ねたいきさつもあり、泉町をすぐ受け入れるか否か態度を保留した。

 ところが市原郡五町による市制施行(昭和三十八年五月一日)、また四街道町に対する合併呼びかけも不成功に終わったことなどから泉町の単独合併を認め、昭和三十八年三月十一日の千葉市議会で合併を議決し、直ちに開会中の県議会の承認をえたのち、翌四月十日に正式合併することになった。一方、同じ日に泉町議会も合併を可決、泉町住民の念願が実現した。

 泉町の当時の人口は九、四八四人、世帯数一千七百世帯、面積四九・三七平方キロメートルであった。泉町には当時千四百戸が加入していた有線放送が町唯一の文化施設といわれていた。

 千葉市の人口は、この合併によって旧市内の人口増もあって二八万人にふくれあがり、全国で二五番目の大都市となった。合併後は泉町役場は支所となり、前町長が支所長に就任、職員七三名中、五〇名は千葉市役所に移り、残りは支所勤務となった。

 昭和二十八、三十、三十八年の合併ブーム以後、社会増によって千葉市の人口はうなぎ上りにふえていったが、昭和四十四年には山武郡土気町を合併して、人口四四万八千人に増加、全国で一五位のマンモス都市に変容した。

 土気町は千葉市の南端に位置しており、昭和十四年までは土気本郷町として親しまれてきたが、同年四月十五日に土気町と改めた。合併直前の人口は約八千人、面積三一・四七平方キロメートルであった。

 土気町は町域の九割を占める農村地でそ菜、果樹の栽培、酪農にすべての利点を持っており、近隣消費地への絶好の供給地であった。そのほか風光明媚な景勝地であったので、千葉市は早くから土気町に着目、都市開発事業へ巧みに取り入れ、市域拡大の根幹にしようと合併を働きかけ、昭和四十四年七月十五日、編入合併を成しとげたのである。

旧土気町役場

 千葉市は土気町の編入によって人口四四万八千人、総面積二四九・六〇平方キロメートルとなった。合併に伴って土気町役場は支所となり、前町長は支所長に、前助役は嘱託に、前収入役は支所長補佐となった。職員は四七人が支所に残り、三〇人が市役所に移った。更に町議会議員は千葉市土気地区振興協議会として残り、市長の諮問機関的役割りを果たすことになった。