第四項 市役所の移転

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 昭和四十二年九月、市役所内に汚職が発生し、幹部が逮捕されるなど大きな事件となった。宮内三朗前市長は、信頼していた部下だっただけにショックが大きく、責任上いたく心痛していたという幹部の証言であった。自分には直接関係はないが監督不行き届きの責任を感じて一時は辞任を決意し、それとなく議会筋に意向をもらしていた。しかし議会筋は宮内前市長の功績を惜しんで慰留する意見がほとんどであった。

 打ち沈んでいた宮内前市長を激励のために、友納武人知事が市長室を訪れたのは、ちょうどそのころであった。談たまたま庁舎問題にふれられた。友納知事の話によると、そのさい宮内前市長は、「市の発展が急で新築以来、わずか五年余であるが、もう手狭になったので増築をしたい。ついては知事の積極的な協力を願いたい。」と要請した。

 市では、そのころ庁舎(現開発庁舎)の裏を一部買収して用地に当てるとともに、六階建ての庁舎の上に二階ほど建て増すことを、計画していた。庁舎裏とわきの用地については、一部は手ぎわよく買収できたが、残る用地の買収は難航し、金額での歩み寄りは困難であった。折角の増築計画も用地問題で暗礁に乗り上げたままになっていた。

 この話をきいた友納知事は、「それでは出洲海岸の埋立地(新港)のビジネスセンターに市の庁舎を移転したらどうか」と、宮内市長に持ちかけたそうである。市長は当初、市民へのサービスを考えた場合、移転はできないと反対、「市庁舎より県庁舎を出洲の埋め立て地に移転したらどうですか」と、逆に県庁舎の移転を要望したそうである。

 友納知事は、宮内市長の反対意見にも拘らず、更に「将来道州制(当時議論がでていた)の話もあり、地方自治体としては、今後は市町村が行政推進の根幹になるので、各種ビジネスセンター(出洲はビジネスセンターにする計画であった。)になる出洲中央地区へ移る方が好ましいのではないか」と話したそうである。

 この日の話し合いは、宮内市長の激励に訪れたので結論をえないまま別れたが、別れぎわに宮内市長は検討を約束したそうである。

 その後宮内市長は、数日間移転すべきか否かをめぐって一人考え抜いた。迷いもあって決断を下しかねていた。それというのも当時の庁舎位置は明治の千葉町以来ゆかりの場所であり、県庁と相対して、地理的にも、行政事務推進の上でも最適の場所であったからである。

 宮内市長は、意を決して市議会の議長経験者をはじめ市専門委員などに移転についての可否を打診した。その結果、「百万都市千葉」の将来を考えた場合、思い切って新天地である出洲の埋立地へ移転することに積極的な賛成論が大勢を占めた。特に自動車交通の発達は、当時すでに飛躍的増加を示しており、駐車場の少ない当時の庁舎では、いずれ市民からの苦情は必至であり、大きな駐車場スペースのとれる場所へ移転した方が市民サービスの点からも最善策であるとして、反対論が少なかったそうである(生前の宮内市長の話)。

 しかし宮内市長は、すぐ移転に踏み切ったわけではない。それには三つの理由があった。

 一 現位置が千葉町役場発祥の地であり、譲り難い。

 二 新築して間がない。

 三 税金を無駄使いしたくない。

 移転話をきいて地元商店街からの強い反対、野党筋から出洲の埋立地は交通の便が悪いなどの理由をあげて反対意見が出され、市議会で論議が展開された。一般市民からも反対の投書や、意見が直接市長に寄せられ、市長も苦悩していた。

 だが、千葉市百年の大計を考えた場合、特に都市交通のあり方を改善すれば、思い切った広いスペースのとれる出洲地区へ移転した方がよいとの意見が次第に強くなっていった。そこで移転を決意し、友納知事に「移転了承」を伝えたが、条件として庁舎の「等価交換」と新しい用地として六万六千平方メートル(二万坪)の分譲を要求した。二万坪の話をきいて県は「市役所の敷地で二万坪というのは全国にあまり例がない(一カ所あった)。」として賛成をしぶった。しかし結局庁舎用地として三万九六七八平方メートル(約一万二千坪)を承認し、庁舎の等価交換は0Kとなり、その上、新庁舎のそばに三万三千平方メートル(一万坪)の公園を県で造成の上、千葉市に寄付することを提案してきた。市長は市議会や庁内の幹部にも相談の結果、これを受け入れることになり、市庁舎の出洲埋立地への移転が本決まりとなった。

 庁舎の等価交換については、旧庁舎を県が敷地、建物合わせて一六億六七〇七万円で買い取り、その費用で旧庁舎と同じ規模のものを新築するというものであった。新庁舎敷地は埋立地を六億九七六八万円で県から買いとる形をとったので、庁舎分は約一一億円ということになる。

 新庁舎の建設予算は一一億六三九〇万円であった。議事堂を別棟にしたので、等価交換価格より若干市の持出しになっている。

 新庁舎建設に当たっては建設審議会(木村嘉信会長)を組織して計画を練った。その結果、議事堂は別棟とすること、駐車場は一千台収容(旧庁舎は七〇台分しかなかった)のため一万三千平方メートル(四千坪)を確保して市民サービスを考えること、新田・登戸地区の都市改造を実施することなどを決めている。

 当時千葉市の人口増加は異常なほどで、昭和三十八年に旧庁舎を建設したときは、二五万人であったものが、すでに四〇万人に達していた。数年後には五〇万人になることは必至であった。六〇年には七〇万人になることを想定して庁舎を建設する必要があるとされていた。

 現開発庁庁舎となった市役所庁舎は、敷地が七万五千九百平方メートル(二千三百坪)しかなかったし、将来の千葉市を考えた場合、位置はいいとしても手狭になることはわかっていた。昭和四十二年当時、すでに狭隘となっていたのである。

 しかも出洲の埋立地は約五九〇万平方メートル(一八〇万坪)であり、千葉市の戦災地域の三倍弱のスペースのある出洲地区へ移ることは、将来必ずプラスになるとの意見が強かった。

 しかも新庁舎用地は、現行用地の五倍余の広さであり、すぐそばへ三万三千平方メートルの公園まで県で造成してくれるので、理想的な環境になるものと考えられた。

 新庁舎は千葉港一の一にあって地下一階、地上八階、一部塔屋三階で旧庁舎の一・五倍の広さとなった。議事堂が別棟で地下一階、地上四階建てという堂々たるもので、特に一千台収容の駐車場は壮観である。しかし、この駐車場も昭和四十八年三月現在では、すでに駐車する場所もないほど車で埋まっており、いかに自動車の増加が激しいかを物語るものであろう。

 新庁舎は一階のロビーのスペースを広くとり市民の利用し易いように配慮が加えられている。戸籍関係にはベルトコンベアを設置したほか市民に関係深い部門は一階に集中させたことも一つの特徴であろう。

 新庁舎は昭和四十三年十二月に起工式を行い、工事は一年余ででき上がった。落成式は、市制五十周年の記念行事とも合わせて昭和四十五年二月十一日に現駐車場に各界の代表約五千人を招待して盛大に行われた。式にはこの日、千葉市と姉妹都市の調印をしたカナダ国ノースバンクーバーのトーマス・H・リード市長も出席し、国際色を加えた。

 新庁舎の落成を祝って小中学生一千人による鼓笛隊のパレードなど各種の記念行事や催しが盛大に行われた。

新しい千葉市役所

 この新庁舎建設に伴って、市民の交通の便が悪いとの批判があったので、市では千葉駅と市役所の間に専用の無料バスを運行して市民の足の確保をはかり、バスの前面には、「市民バス」と書き、左回り、右回りを走らせた。千葉駅から行く場合は乗車だけ、市役所から駅へ向う場合は降車だけという方式をとった。停留所は八カ所、平日は午前九時から午後五時まで、土曜日は午前九時から午後零時半までで、日曜祝日は運休した。一時間平均往復で八本運転した。このバスは、その後京成電鉄の路線バスの充実によって昭和四十五年九月三十日限りで廃止された。

 新庁舎の規模

 建築面積   三、四四一・九六平方メートル

 議事堂    一、三六〇・八九 〃

 庁舎延べ面積 一、七五二万二〇六二平方メートル

 敷地面積    七万三四八三・一三 〃

   (うち 公園三万三八一六・六一平方メートル)

 新庁舎は白色で統一したが、白は自由と平和の上に清潔を現わしており、市の未来に限りない希望をこめ、白色にしたいきさつがある。また、市の発展によって、今後市庁舎の増築工事が必要の場合には、コの字形に増築できることが考えられている。

 市の庁舎が完成した当時、周辺一帯は埋立地のままで、ビルらしい建物といえば市役所ぐらいのものであったが、建築以来五年間で付近はビル群となりつつある。