県立千葉高等学校

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 さきに述べたように、本校の創立は明治十一年(一八七八)八月である。創立間もない明治十五年(一八八二)度予算審議の県議会は松方財政実施にともなう経費削減から千葉中学校の予算の全額削除を可決した。こうして、本校は廃校の危険にさらされたが、船越県知事らの努力によって、別途支払金が認められその存続が決定した。一時は退学、転学者が二十余人となるが、存続の決定によって、その後在学者が八十余人に増加した。

 明治十九年(一八八六)の中学校令の発布によって、中学校は高等中学校(国税)と尋常中学校(地方税)に分けられた。千葉中学校も千葉尋常中学校と改め、千葉師範学校(県庁裏、都川畔)の仮校舎から、千葉女子師範学校(現教育会館)の校舎に移転した。修業年限は従来の三カ年半・半年学期制を、五カ年・一年学期制とし、校長も師範学校長兼任をやめ、千葉師範学校教諭田中直吉を専任校長に迎えて、教育内容の充実を図った。明治二十年ころから、生徒の間で英語熱が高まり、明治二十一年(一八八八)英国人F・I・ノーマンを雇用(月給百円、当時の校長は月四〇円)したのを初めに、明治二十八年までに、英米人教師を招いてその要望に答えた。

 明治三十二年(一八九九)中学校令の改正によって、中学校は「男子ニ須要ナル高等普通教育ヲ為ス」を目的に定め、尋常中学校の名称を廃止して、中学校とした。高等中学校に関する条項は中学令の中から削除した。そこで高等中学校は高等学校令によって、高等学校(旧制高校)と位置付けられた。千葉中学校校舎は、元千葉女子師範学校が使用した建物で、すでに老朽化しており、年々生徒の増加もあって、明治二十九年(一八九六)三カ年計画で校舎の新築にとりかかった。明治三十年、敷地を猪鼻台、天神台、弁天台、原台にわたる土地に求めて着工、明治三十二年十一月新築落成式を挙行した。総工費、五万九七一七円五五銭、総建坪、一、〇六八坪余の洋式瓦葺二階造りであった。

 明治三十二年四月、千葉県立千葉中学校と改称し、昭和七年、十二年には甲子園の中等野球大会に出場、特に十一年には準決勝に進出するなど、対外競技にも大いに活躍し、しかし、戦時体制の強化につれて、学徒勤労動員方策要綱に従って、学業を棄て生徒は、陸軍兵器廠、日本建鉄株式会社において、航空機部品生産に従事し、校舎には捷部隊、東部軍管区司令部が置れた。昭和二十年七月の空襲に際しても、軽微な損害で終戦を迎えた。

 昭和二十二年、六・三制の実施にともなって、四月一日より、一年生の募集を停止、五年生、四年生は千葉県立千葉中学校生徒として残り、三年生、二年生は千葉県立千葉中学校併設中学校生徒となった。昭和二十三年四月一日、新学制に従って、千葉県立千葉高等学校と改称、全日制、定員一〇四〇名のほか、定時制、及び通信教育部が併置された。昭和二十四年度から、男女共学制が採用となり、三名の女子生従の入学が許可となった。昭和二十四年度から、週五日制が採用され、以後三カ年間続くが、その後撤回された。

 昭和二十五年、学則の改正によって、千葉県立千葉第一高等学校、同三十六年、千葉県立千葉高等学校と改称して現在に至っている。

県立千葉高等学校

 昭和四十八年三月末現在、本校は、生徒会不在の変則状態にある。その原因などについて、『六九年度、県立千葉高校における高校生運動のあゆみ』(千葉高等学校 塚本庸)によれば、次のような経過があったのである。

 昭和四十三・四年度全国的規模において、大学、高校で学園紛争が展開される。その一般的原因等については省略するが、昭和四十四年生徒会執行部が未成立の状態で、本校は新学期を迎えていた。四月十一日、教指第五八八号、「高等学校生徒指導の充実強化について」(教育長通達)が出され、その中で「生徒が政治的行動、集会等に参加することは社会的経験に乏しく判断力も未熟な点等から考えて望ましくなく」――望ましくないの表現は禁止の意味――「生徒の本分は、あくまで学業に専念し」などと規定してあった。この通達に反対して、四月十九日、千葉市内ではじめて、高校生による街頭デモ(約六十名)が起り、通達反対のビラの配布、反対集会など紛争は激化していった。四月二十五日開かれた本校職員会議は「この通達は不明確かつ適切でない点が多々ある。われわれはあくまで憲法の精神に従って教育の場に専念する」とした職員に対し、校長は「憲法の精神に従って、この通達を解釈し、本校の教育とする」旨を示している。同年九月三十日千葉東高等学校で校舎の一部が千葉県反戦高校生協議会加入の過激派生徒によって封鎖され、その処分撤回を要求して、十月四日本校の図書館が封鎖され、機動隊が導入され(本校が導入を要求した事実はない)、十名程度が逮捕されている。しかし、十一月中旬を過ぎると、運動は衰退していった。翌年三月の卒業式は校歌にかわって、インターナショナルが歌われ、式は十五分間で終了する異状さであったが、三年生の卒業によって、高校紛争は表面上消滅していったのである。こうして、本校の紛争は消滅したが、それは過激派生徒の内部分裂と卒業によると解釈されている。