県立千葉女子高等学校

325 ~326 / 546ページ

 さきに述べたように、本校の創立は明治三十三年(一九〇〇)である。明治三十二年、千葉中学校(現県立千葉高等学校の前身)が現在の葛城台の校舎に移転した跡の校舎を仮教場に発足したが、生徒数の増加につれて、教室は不足し、県会議事堂を十文字に幕で仕切って授業を行い、県会が開催されると、寄宿舎において授業をする程であった。

 創立の翌年、千葉県立千葉高等女学校と改称している。明治三十六年かねて、千葉町寒川新宿(現新宿小学校敷地)に建設中の新校舎が竣工(工費四万二千円)し、三月二十九日落成式を挙行、翌三月三十日第一回卒業式を行って、四八名の第一回卒業生を送り出している(在学中に教育学の一科目を履修すれば、小学校尋常科教員の資格が与えられたので、卒業生中、十余名が小学校教員となっている。)。明治四十二年(一九〇九)小池民治が校長に迎えられ、本校教育の基礎が確立されていった。特に訓育に重点が置かれ、毎日始業前の朝礼に際し、校長は欠かさず、生徒に講話を述べ多大の感銘を与えたといわれる。生徒には毎日必ず日記をつけさせて、一日の反省を求め、学友会文芸部例会(現在の生徒会文化祭にあたる)を盛んにして、生徒に発表の機会を与え、初めて女子生徒の県外修学旅行を企画して、見聞を広めさせていった。明治四十年代から、大正十五年までの間に、県下で一五校の高等女学校が創設されるが、本校は常にこれら新設校のモデル学校となって、本県女子教育に与えた影響は大きいものがある。大正期に本校は六年間にわたって、校舎の改造を行って、面目を一新していった。

 太平洋戦争勃発は女子生徒にも勤労動員を強制し、学校は目立航空機の学校工場となって、四年生は学校工場に、三年生は千葉寺下の日立分工場で生産活動に従事させられた。運動場は朝礼の場所を除いて、農園となってしまった。昭和二十年六月十日の、午前七時ごろ、四発の爆弾が落下、体育館は全壊、同窓会館は七分どおり破壊されて、生徒二名即死、重傷二名という、いたましい犠牲があった。更に七月六日の焼夷弾攻撃によって、同窓会館を残し、校舎のすべてが焼失した。更には、沼田校長は学校へかけつける途中焼夷弾の直撃をうけて殉職したのである。

 戦後、校舎を失った生徒たちは、現在の末広中学校、千葉師範学校寄宿舎、日本パルプ稲毛工場に分散授業のやむなき状態においこまれ、この分散授業の形態の中で、六・三制へ移行したのである。

 昭和二十三年、市内小中台町の旧陸軍防空学校跡に移転が決定、四月一日、千葉県立千葉女子高等学校と改称、通信教育課程を併設した。

 昭和二十四年二月、原因不明の出火によって、本館一棟が焼失し、再び、日本パルプ工場の一部、千葉市立高等学校(現千葉東高等学校)などで分散授業をした。この年四月、男女共学制の採用により、本校開設以来初めて、男子三名の入学が許可になっている。昭和二十五年、学則改正にともなって、千葉第二高等学校と改称、普通科、家庭科あわせて、定員八四〇名の規模となり、PTAが先頭になって、校舎の再建活動が展開され、十月、工事に着手した。昭和二十六年九月本館完成の落成式を挙行、以後、校舎の整備が進行していくのである。

 昭和二十九年、通信教育課程が千葉第三高等学校(現千葉東高等学校)に移され、代わりに、栄養専門学院が附設された。昭和三十六年再び校名変更があって、県立千葉女子高等学校と以前の名称に復帰して現在に至っている。

県立千葉女子高等学校