県立千葉東高等学校

326 ~327 / 546ページ

 昭和十年から昭和十五年にわたって、千葉市の人口は五万七千余人から、九万二千人と、急増し、女子の高等女学校への進学率の上昇もあって、高等女学校入試は年を逐って激しくなっていった。当時、千葉市内の公立女学校は県立千葉高等女学校一校のみで、同校の競争率は昭和十五年度二倍を越え、市民の間から女学校設置の要求が高まっていった。この要望を察して、当時の千葉市と千葉県は協議の結果、次の結論を得たという。

 一 現在の情勢から見て、公立高等女学校の設立は緊要である。

 一 現存の高等女学校は五年制であるが、女子普通教育は四ヵ年で一応修了、その上に職業教育を施す。

 一 将来はこの学校の上に三年制の女子専門学校を設置する。

(『千葉市誌』)

 右の構想による関係者の努力が実り、遂に、昭和十五年九月十九日千葉市会は市立高等女学校の設立を可決した。開校を昭和十六年四月と予定し、校舎は市内港町の旧市立工業学校(現千葉工業高等学校)跡に、修業年限四年、定員六百人(後に八百人に改訂)、授業料は市内居住者は一カ月、四円五〇銭、市外通学者は五円五〇銭と定めている。昭和十六年五月十五日、開校式を挙行し、「明朗、真剣、錬磨」を校訓に人格の完成と、身体の強健を目標に掲げて、本校を発足させた。港町の校舎は寒川小学校校舎として建てられ、市立商業、工業、青年学校、市の職業補導所と使用したのを、市立高女が使うことになったものであった。そこで、葛城台に土地を求め校舎の建設に着工するが、日華事変下の資材の不足もあって、ようやく、昭和十八年七月、一部生徒が新校舎に入ることができるようになるが、昭和十九年四月、教室の不足から、隣接の高橋アパート(葛城アパート)を買収して、教室に当てている。生徒は港町校舎、葛城第一校舎(新築)、葛城第二校舎(葛城アパート)の三カ所で分散授業をしていた。昭和二十年七月の空襲によって、港町校舎は焼失、戦後は隔日授業などをして、職員、生徒ともに筆舌に尽せない苦難が続いたのである。

 昭和二十三年四月、千葉市立高等女学校と校名を変更、市内轟町に移転、同二十五年県立に移管、県立千葉第三高等学校となり、新発足することとなった。県立移管と同時に男女共学制をとりいれ、初年度六九名の男子が入学したが、昭和三十一、二年度を例外として、昭和三十八年度までは女子が多数を占め、以後、男子の入学者が女子を上回って現在に至っている。

 本県では、昭和二十三年度、高等学校通信教育課程が、現在の県立千葉高等学校、及び県立千葉女子高等学校で始められたが、昭和二十九年四月から、本校に統合された。今日、本校の通信教育は全国的名声を博し、毎年百名を越える卒業生を送りだしている。

 昭和三十六年、県下高等学校の校名変更が一斉に行われ、本校は千葉東高等学校と改称、昭和四十一年には、高等学校としては県下最初の衛生看護科を併置し、昭和四十二年新校舎建築に着工、昭和四十六年十一月二日、創立三十周年並びに新校舎落成記念式を挙行している。

県立千葉東高等学校