県立千葉商業高等学校

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 〝野球の千葉商〟として、市民に親しまれている本校の淵源は明治三十四年(一九〇一)の町立千葉商工補習学校に始まる。同校は千葉町の商工業の振興を目的として、当時の千葉高等小学校のなかに設けられ、校長は千葉高等小学校長が兼任した。大正七年(一九一八)工業科(漆工)を廃して、千葉商業補習学校と改称した。しかし、実業補習学校では効果が期待できず、商業学校への昇格運動が起こり、大正十二年四月一日組織を変え、尋常小学校卒業生を入学資格とする修業年限三年の乙種商業学校となった。校名を千葉市立千葉県千葉商業学校と定め、生徒五〇名、職員一六名で、同年四月二十日(この日が創立記念日となる)入学式を挙行した。現在も校訓とされている、誠実、勤倹、剛健、礼譲は、このころの制定といわれている。そして、大正十三年旧寒川小学校跡(港町)に校舎を新築して移転した。

 昭和四年、修業年限五年の甲種商業学校に改組、別に夜間の千葉商業実務学校を併置した。

 昭和八年、校舎移転問題が起こり、市内千葉寺町に移転先が内定したが、高橋善七が約一万坪の土地の寄付を申し出たこともあって、松波町の現敷地に校舎の建設が決定し、昭和十年十二月移転を完了したのである。

 第二次世界大戦の激化する中で、昭和十九年四月、本校は千葉市立航空工業学校(航空機科)に転換を余儀なくされ、校舎を現在の末広中学校に移され、前校舎は日立航空機製作所の工場となった。敗戦の結果、航空機製造は禁止され、本校は昭和二十年十月十四日、航空工業から、千葉市立工業学校に校名変更になるが、職員、生徒、同窓生間で、商業復帰が叫ばれ、生徒は同盟休校さえおこしてその意志を表明したのである。昭和二十一年三月三十一日、もとの商業学校に復帰し、工業学校希望者三名は県立千葉工業学校に編入学した。昭和二十三年、新学制の実施に基づき、千葉市立商業高等学校と校名、組織を変更、昭和二十五年県立に移管され、男女共学制を採用した。昭和二十七年、定時制課程を併置して、勤労青少年に門戸を開いた。

 本校は戦前からクラブ活動が盛んで、特に野球、バスケット・ボールクラブの活躍はめざましく、昭和十四年、十五年、戦後の二十九年、三十一年、三十九年、四十三年と甲子園の野球大会に出場している。

 近年本校では男子が減少し、女子が増加の傾向にあるが、一万余名の卒業生は、地元経済の担い手から、広く日本の産業経済の担い手として活躍しており、日本経済の発展につれて、昭和四十七年度で、就職希望者約三百名に求人数は九千名を越えている。

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