昭和十一年二月十日、千葉市会は市立工業学校設置案を可決し、その設置理由を次のように説明している。一般的なわが国の工業発展を述べたあとで、「公務自由業ヲ除クトキハ工業ハ商業ノ次位ニアリテ、市民ノ生業中最モ重要ノ位置ヲ占メ、従テ其ノ興廃ガ市ノ隆替ニ、重大ナル関係ヲ有ス」(昭和十一年『市会議事録綴』)と続け、更には県下に工業学校が一校もなくて、工業希望者はやむなく中等学校、あるいは東京の工業学校に通学している。この実情を打開して、市民の教育に対する要望を満たさなければならない。そして、千葉市の工業の特色として、澱粉製造、製粉、食品加工業をあげ、応用化学方面の中堅技術者が必要であると説明し、あわせて、応用化学科は比較的少ない経費で学校運営が可能であると述べている。校舎は千葉市港町七番地の市立商業学校跡に設置された。修業年限五年、定員二百名、新設のための四年間の所要経費は一万四三四〇円であった。
昭和十二年には第二部(応用化学科)を併置している。昭和十三年五月二日、理科実験中の事故により出火、一時千葉尋常高等小学校の校舎の一部を借りて授業を行うが、市内花園町に敷地を求め、昭和十四年に移転した。この移転と同時に県立に移管し、県立千葉工業学校と改称、機械科、電気科が設置された。戦時体制下の昭和十九年、以前の応用化学科を工業化学科と改め、電気通信科を新設した。
昭和二十年七月の空襲によって、本校は不幸にも校舎の約四分の三を焼失のため、稲毛町の日本パルプ工場の建物を借用して、授業を再開した。
昭和二十一年、校舎探しの末、千葉郡津田沼町の旧陸軍鉄道第二連隊材料廠跡に移転し、昭和二十三年の新学制の実施によって、県立千葉工業高等学校と校名、組織を変更している(全日制二〇学級、定時制六学級)。男女共学制を採用しているが、女子は昭和三十一年一名が入学したのを初めとし、毎年数名から十数名入学の状況である。
昭和三十年代の後半になると、校舎の改築、移転問題が起こった。特に工業科の実習工場は危険な状態になっており早急な解決が望まれていた。幸い、千葉市が将来学校用地として確保してあった生実町の約五万平方メートルの土地に移転が決定、昭和四十二年四月、本校は習志野校舎から移転を完了した。新校舎は京葉工業地帯を一望のもとに見渡す生実台にそびえ、建物は変型H型(〓)で、部屋としての有効面積を広くとっている。昭和四十六年、時代の要求に即応して、情報技術科を設置、電子計算機組織の製造・利用分野の技術者養成にあたっている。