国立千葉大学は昭和二十四年五月三十一日、国立学校設置法に基づき、当時の県内国立諸学校を統合して設立された。本学は当時の千葉医科大学、同附属医学専門部、同附属薬学専門部、千葉師範学校、千葉青年師範学校、千葉農業専門学校、東京工業専門学校を編成母体として、当初五学部で発足していた。
昭和二十四年発足当時の編成は六―一〇〇表のとおりである。ところで、総合大学として発足した本学の第一の課題は、その歴史も所在地もっている各部を整備統合することであった。昭和二十六年六月の大学設異な置審議会第九特別委員会は、東京大学生産技術研究所敷地(弥生町、以下西千葉地区とする)に統合することを決定していたが、その後、一部の変更があって、結局、矢作亥鼻地区、松戸地区、西千葉地区の三地区に統合されることに決定した。この計画に従って、昭和三十七年、教育学部が西千葉地区に移転したのに続き、西千葉地区は五学部、教養部、附属図書館、工業短期大学部、附属諸学校、大学本部などの施設がまとまり、本学の中心地区を形成している。亥鼻地区は将来腐敗研究所等も移転して、医学センターとしての機能をもつといわれている。
学部その他 | 所在地 |
本部(事務局・教務厚生部) | 千葉市矢作町 |
学芸学部(学芸部,教育部4年課程) | 千葉市市場町 |
学芸部分校(教育部2年課程) | 印旛郡四街道 |
医学部(医学科)(旧制) | 千葉市矢作町 |
医学部附属病院(本院) | 〃 |
同(習志野分院) | 千葉郡津田沼町 |
薬学部(薬学科) | 千葉市亥鼻町 |
工芸学部(学科制をとらない) | 松戸市岩瀬 |
園芸学部(園芸学科,農芸化学科,造園学科) | 松戸市戸定 |
同附属農場 | 〃 |
腐敗研究所(腐敗研究部,微生物化学部) | 千葉郡津田沼町 |
附属図書館 | 千葉市小中台町 |
次に、千葉市と特に関係の深い、医学部、薬学部、教育学部の沿革概要について述べる。
千葉大学医学部・薬学部 千葉大学医学部の前身は、明治九年(一八七六)の公立千葉病院医学教場設立に始まる。明治十三年(一八八〇)六月に第一回卒業生一八名を送り出しているが、この年長尾精一が招かれて、病院長兼医学教場教頭の職に就任している。長尾精一は以後、県立千葉医学校、千葉医学専門学校に至るまで、その長の職にあって、本学部の基礎づくりに挺身したのである。長尾精一は東京大学医学部第二回の卒業生で、ドイツ系医学を修め、以前からの蘭学系の医学に代えて、新しい医学体系を千葉医学教場に樹立していったのである。明治十五年七月、千葉病院を県立千葉医学校と改め、病院を付属としている。この医学校は文部省規準による甲種医学校で、修業年限四年、生徒総数は九二名であった。明治十六年五月、開校式を挙行し、明治十八年一月、第一回卒業生一七名を卒業させている、この一七名はわが国における甲種医学校の卒業生の最初といわれている。
明治十九年の中学校令によると、高等中学に医学部が付設されることとなっていた。同年東京に設置された第一高等中学校医学部の設置場所について、関東・東海一府一〇県の間で猛烈な誘致合戦が展開された。最後に、名古屋市と千葉町の争奪戦となったが、当時の県当局者及び医学校関係者の努力によって、千葉町への設置が決定している。特に、長尾校長は文部省に日参し、「名医あっての病院である。すでに立派な病院ができているし、千葉病院以上の名医がいる所はない。」(『長尾精一伝』)と断言したことは有名な話である。
こうして、同年十月、医学部の定員四百名と定められ、十二月、長尾精一は第一高等中学校教諭に任ぜられ、医学部長を命じられた。
当時の医学部職員、及び、県立千葉病院職員は六―一〇一、六―一〇二表のとおりである。これは当時としては、まことに充実した職員組織であるが、本校は地方税ではなく、国税によって、その経費が支出されることとなった。
部長 | 長尾精一 |
(教諭) | |
婦人科学 産科 小児病 | 長尾精一 |
内科学 診断学 | 石川公一 |
眼科学 裁判医学 | 荻生録造 |
外科学 皮膚病 黴毒 | 堤宗卿 |
病理学 精神学 | 大西克孝 |
解剖学 | 松村三省 |
外科学 | 三輪徳寛 |
生理学 衛生学 薬物学 | 山本治郎平 |
(助教諭) | |
組織学 解剖学 | 新井春次郎 |
動物学 植物学 物理学 | 山田小太郎 |
化学 | 村松正 |
英語 | 山田政三 |
兵式体操 | 中田万吉 |
(舎監兼書記) | |
生徒掛兼教務掛庶務掛 | 石井幹 |
本間正行 | |
(会計主任) | |
鈴木常重 |
院長 | 長尾精一 |
内科 司療医長 | 石川公一 |
司療医副長 | 大西克孝 |
外科 司療医長 | 桂秀馬 |
眼科 司療医長 | 荻生録造 |
婦嬰科 司療医長 | 長尾精一 |
司療医副長 | 堤宗卿 |
薬室長 | 村松正 |
事務長 | 吉野貴造 |
(『千葉県教育史』)
明治二十二年九月、千葉町猪鼻台の現医学部敷地に、第一高等中学校医学部、及び、県立千葉病院新築工事が起工されている。明治二十三年七月、後の薬学専門部の前身である薬学科(定員百名)が付設され、同年九月、落成、移転が行われた。
敷地一万五〇〇二坪、総建坪、一、〇〇八坪、建築費一万八九五四円余りであった。明治二十四年版『千葉繁昌記』によれば、
高等中学校
同校は猪鼻山上に在り千葉市中第一等の建物にして、……無盡蔵とまで人に信ぜられける国庫支弁の普請なれば立派に出来たるも亦道理の沙汰とや云ん、此校に出入する学士先生は拾余名にして各A字のピンを襟飾となして自得然たり、学生三百余名は皆一中の徽章を帽に着けて揚々乎たり、……千葉町に来る者の第一視線内に入るものは実に此校舎にして我千葉市街に一大光彩を添へたり。
と述べて、この校舎、職員、学生は町民のあこがれの的であった様子がうかがわれる。
明治二十七年六月、高等学校令の施行によって、第一高等中学校医学部は第一高等学校医学部と改められ、修業年限については医学科は四年、薬学科は三年と定められた。明治二十八年の卒業生は医学科が四二名、薬学科が五名で、それぞれ「医学得士」「薬学得士」の称号が与えられた。
明治三十四年四月一日、文部省直轄学校制度の改正によって、第一高等学校医学部は千葉医学専門学校となって、第一高等学校から分離独立した。学生も今までの柏葉の徽章に白線二本から、角帽を用いるようになった。そして、このころから、基礎医学教室の増改築が進み、医療器械の改善も行われていった。
大正三年、三輪徳寛が第三代校長兼病院長に就任した。三輪徳寛は明治二十二年に本校に赴任し、明治三十三年ドイツに留学、帰朝後、長尾精一、荻生録造のあとを継いで、校長となった。『千葉大学医学部八十五年史』の中で、竹内勝は三輪徳寛を次のように評している。「三輪教授は平素手術室に獅子目を以て観察し、女人の柔らかさを以て手術すべしと自他を警め、他方その風貌は漠として風の如く、在ってなきが如き昼行灯のような姿にも見えるが、いろいろな意味で千葉学派の中興の祖というべきであろう。」
大正十一年三月、各医学専門学校に付属病院を設置することになり、千葉県は県立千葉病院を国に寄付している。大正十二年三月三十一日、千葉医学専門学校は昇格して、千葉医科大学となり、四月一日、三輪徳寛は学長に任ぜられた。
昭和七年、付属病院の改築に着工、昭和八年、病院新館などが竣工、昭和十二年に完成落成式を挙行した。
戦時色も濃厚になった昭和十九年、四年間の修業年限を三カ年とする措置がとられ、学生・生徒は勤労作業各種病院の実習勤務を余儀なくされた。遂に大学の疎開が問題となって、昭和二十年六月、医学専門部第一学年は長野県下伊那郡大下条村へ、第二学年は同郡下条村に疎開した。しかし学内には疎開反対論もあって、残留、疎開は教授自身の判断にまかされたといわれる。同年八月、戦災救護、一般医療を千葉に残し、大学の大部分が長野県伊那地方に疎開し、八月十一日大下条村において、千葉医科大学天竜分室の開所式を行ったが、同月十五日の終戦によって閉鎖となった。
これよりさき、昭和二十年七月の空襲によって、本学は基礎医学教室など多くの建物が焼失し、そのうえ多数の傷病者の治療に、医師たちは不眠不休の活躍を続けたという。
昭和二十四年、新学制の実施にともない、本学は千葉大学医学部として新発足して今日に至っている。
千葉大学教育学部 千葉大学教育学部の前身は千葉師範学校(男子部、女子部)、千葉青年師範学校である。千葉青年師範学校は戦前本納町に設置されていたので省略し、ここでは千葉師範学校について述べる。
千葉師範学校 本校の淵源はさきに述べたように、印旛官員共立学舎に求められる。明治七年(一八七四)本校は千葉町に移り、校舎を都川のほとり(現教育会館付近)に建設し、明治十年四月二十九日、千葉師範学校開校式を挙行した。同年九月、本校敷地内の付属小学校教室を借りて、千葉女子師範学校を創設し、翌年二月から授業を開始している(生徒三二名)。
建築間もない師範学校校舎について、明治十七年卒業の小熊吉蔵は次のように述べている。
県庁の南側の道を西に向って行くとつき当りが都橋で此橋を渡ると校門があった。……北の入口が師範学校で南の入口は中学校であった。校舎の全景は凹字形二階西洋風で階上階下共に中央に長廊下があって、廊下を挿んで両側に一室毎に仕切った室が幾つも設けられ、階上の左の突出部は大広間の講堂で……階上は寄宿所の各室、もっとも中学校は人数も少なく………全体の四分の一位で其寄宿舎は別に中庭の所に平屋建の一棟が設けられていた。
(『千葉県師範学校創立六十周年記念誌』昭和十一年発行)
なお、小熊吉蔵は寄宿舎の食事について、「私など入学前家庭にある時の食事は米と麦との半分交りのいわゆる半麦飯に味噌汁香の物」(前掲書)であったが、寄宿舎では、「昼と晩には肉類付き、飯は雪の様な白飯」(前掲書)と形容している。しかし、この白飯のため脚気が続出し、生徒たちを苦しめたというから皮肉である。
明治二十年、師範学校令に基づいて、校名を千葉尋常師範学校と改称した。明治十九年発布の師範学校令によると、師範学校長は各府県の学務課長を兼ね、師範学校を中心に県内の初等教育の統一を図った。そこで、師範学校内の教育は統一的、厳格なものになっていった。明治二十二年、本校入学の薦岡徳太郎は
……軍隊教育其の物とさへいはれる程の厳格であった。……朝起きるより夜寝るまで制服のままで和服下駄等は絶対に許されず、……私物としては僅かに白布の蒲団と筒袖無地の寝巻各一を持つことを許された位である。……生徒は一学級三十人づつ四学級百人あまりの少数で、……相当の入学難であった。学費はすべて県より支給され、被服、学用品等は現品で教科書類はすべて貸与せられ、外に小遣として一週間拾銭(うち二銭は貯金され卒業の際頂戴した)の手当をうけた。
(前掲書)
と当時を述懐している。
明治二十年代の後半になって、校舎の移転、改築問題がとりあげられた。当時の字西谷の校舎は都川と葭川の合流点の低湿地にあって、次第に老朽化していたのである。そこで、千葉町西猪鼻に土地を求め、明治三十年、一年半の工事の末、同年十一月二十八日落成式を挙行した。男子部、女子部、付属小学校と全校の移転が完了したが、この校舎は戦前の校舎で、総工費四万四七〇三円の巨費を投じて建設したものである。なお、同年十月、千葉尋常師範学校を千葉師範学校と改めている。当時は仮入学の制度があって、入学後一学期間はいわゆる仮入学で、人物学力を調査して、暑中休暇に入る前に本入学が認められていた。特に人格の形成に重点が置かれた教育が、この時代に実施された。
明治三十七年、女子部は独立して千葉女子師範学校として独立、千葉町字松原(現在の東京電力、千葉支店付近)に敷地を定めて移転した。
大正十四年、専攻科の制度が誕生し、本科卒業一年間の修業年限によって、より高度の学力の養成と、品格の陶冶が行われた。
昭和六年の師範学校規程で、本科二部は男女とも二年となった(本科一部は五年)。昭和十八年、師範教育令の改正によって、女子師範学校は師範学校に統合され、同時に官立の専門学校に昇格し、修業年限は予科二年、本科三年を通じての五カ年となっている。同年九月開校式を挙行したが、本校の十月ころの学校行事を列挙すると六―一〇三表のとおりで、次第に激しくなる戦時色をうかがうことができよう。本校は昭和二十年七月の千葉空襲に際しても、在寮職員や生徒の奮闘によって戦災を免かれた。女子部の校舎は不幸にも全焼し、四街道旧陸軍砲兵学校跡に移っていった。
年月日 | 学校行事 |
昭和十八年九月二十八日(火) | 海軍甲種飛行予科練習生壮行会 |
昭和十八年十月四日(月) | 予科三年県下連合演習に参加(五日まで) |
昭和十八年十月六日(水) | 予科生映画〝決戦の大空へ〟を見学 |
昭和十八年十月七日(木) | 納田教官戦病死告別式 |
昭和十八年十月九日(土) | 学校特設防護団新編成、附属国民学校高等科二年生三名、陸軍少年飛行兵として千葉を出発 |
昭和十八年十月十二日(火) | 本日より起床後十五分間柔、剣、柔剣道、マラソンを実施 |
昭和十八年十月十九日(火) | 午後七時より空襲警報発令下における防空夜間綜合訓練を実施 |
昭和十八年十月二十一日(木) | 本科三年神宮外苑に於ける出陣学徒壮行会に参加 |
昭和十八年十月二十二日(金) | 本科二年生富士滝ケ原の軍事講習に出発(二十九日まで) |
昭和十八年十月二十五日(月) | 秋季農繁期増産勤労奉仕作業(十一月二日まで) |
(『千葉師範学校開校記念誌』昭和十九年発行)
戦後の学制改革に際し、千葉学芸大学創設運動もあったが、昭和二十四年、千葉大学設立にあたって、学芸学部として参加、次いで昭和二十五年四月教育学部と改称して今日に至っている。