1 概説

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 明治維新がわが国宗教界に与えた影響のうち、最も著しいものは、神仏混合の分離と復古神道の昂揚、及び、永く邪教として厳禁されていたキリスト教信仰の復活であろう。

 復古神道は江戸時代、平田篤胤を大成者に、国学者が唱導したもので、儒教・仏教を排して、古代日本人の民族信仰の復活を主張している。

 王制復古の精神的原動の一つは、この神道論に基づく尊皇思想であった。したがって、成立間もない維新政権は、著しく復古的色彩を帯びることとなる。慶応四年(一八六八)三月十三日(太陽暦では四月五日)いにしえの太宝律令に復帰して、神祇官を再興、祭政一致の制度樹立を布告した。次いで、同年三月十七日、神社の社僧・別当に還俗を命じ、四月二十一日には、神仏分離令が発布されて、久しくわが国で行われていた神仏混合は禁止し、神社を独立させた。

 当市域においても、神仏混合の例は数多くみられ、千葉神社と妙見寺、登渡神社と真光院、滝蔵神社と千葉寺、寒川神社と光明院、蘇我比咩神社と春光院、八坂神社と宝蔵院、作草部神社と正善院、子安神社と観持院などであるが、これらの寺院の宗派はほとんど真言宗に属している。

 平安時代初期に思想として固められ、長く民衆の信仰生活の基調となっていた神仏習合を一片の政府の布告で廃止するのは暴挙に近かった。

 そのうえ、一部の神官らは寺院、仏像、経文などの破却行為に出て、仏教界は大打撃を被った。千葉県においては、比較的平穏に分離が実施されたようで、わずかに香取神宮で激しい動きがあったにすぎない。明治初年まで、千葉の妙見様と人々の尊崇をあつめていた妙見寺では夜を徹して、総代らが協議した結果、神社(千葉神社)として再出発することになったと伝えられている。また、同じ妙見尊を本尊としていた登戸の真光院も登渡神社とすることに決定している。現在、千葉寺境内に滝蔵神社があるが、以前は千葉寺の観世音菩薩の守り神として、境内の鬼門にあたる東北の隅に、インドの竜神を滝蔵権現の名称で祀ってあったのを、この分離令に従って、祭神を海津見神に改めて、神社としたと伝えられている。

 ところで、維新政府は神道によって、国民思想の統制教化を図り、あわせて、天皇の絶対制確立を企て、明治三年(一八七〇)、大教宣布の詔を発し、次いで教部省を設置した。この復古的試みは開国進取、文明開化の政策に基づく、日本近代化の方向と逆行して、十分な効果はあがらず、次第に衰退していった。復古神道による思想統制は失敗に終わったが、神社制度は神道と区別され、宗教を超えるものとして、国家の保護によって温存された。明治四年(一八七一)に社格制度がつくられ、官幣社、国幣社、県社、郷社には、国または地方公共団体が幣帛(神社に献納する物の総称)を捧げる仕組みとなった。ただし、戦前の千葉市の社格は県社一、郷社一、他は村社(四十一社)であった。こうして、神社は一般宗教と区分され、神道の宗教的部分は「教派神道」と規定され、民間に信仰されていくこととなった。

 天文十八年(一五四九)フランシスコ=ザビエルによって伝えられたキリスト教は旧教(カトリック教)であるが、明治以後、わが国でめざましい活動をするのは新教(プロテスタント)である。特に、アメリカのカルヴィン派プロテスタントは伝道会社(ミッション)を組織、有能な宣教師・伝道師を養成して、日本に派遣している。明治六年(一八七三)諸外国の圧力から、切支丹禁制の高札が撤去され、「宗教自由保障」の口達が出されると、宣教師達は敢然として、キリスト教布教活動を開始した。初期の宣教師は聖書の和訳、医療事業、英語塾の経営にみられる教育事業の形から、民衆に接近、次第に本格的布教活動に入ったといわれている。明治五年(一八七二)まだキリスト教禁令下にあった横浜において、わが国最初の教会、日本基督公会が創立されたが、横浜のほか、札幌、熊本の各バンド(群、グループの意味)はわが国プロテスタント発祥の地となった。横浜バンドからは、植村正久、本多庸一、井深梶之助、押川方義、山本秀煌らが輩出し、やがて、横浜から東京、関東各県へとキリスト教は広まっていった。特に、植村正久はたびたび千葉県に来て、熱心な布教活動をしている。一般に、千葉県下へのキリスト教布教活動は、当時の交通路に沿って、木下街道に面した町村に始まり、次第に県内各地に拡大していったといわれる。

 明治八年(一八七五)一外人宣教師(デヴィソンらしい)が、旧菊間藩士三浦徹の案内によって、市内の市場町油屋旅館前で、街頭説教を始めた。これが千葉市での新教布教活動の最初といわれる(『教会略史、回顧五十年』日本基督教会千葉教会大正十五年発行)。しかし、警察の中止命令を受け、亥鼻台に場所を移すが、この場所も禁止されて、宿泊していた大和橋際の万菊旅館の一室を借りて、布教活動をしたが、これも二日後に禁止され、宣教師は千葉を立去ったといわれる。その後しばらく、キリスト教布教活動はみられない。明治十二年ごろ、登戸村の海産肥料商であった鈴木幸助は、当時、登門小学校教員香川熊蔵より、習字の手本として借りた書物(内容がキリスト教教導書であったらしい)を一読して、キリスト教に興味を抱き、明治十三年には伝道師相原英賢を自宅に招いて、説教会を催す程になった。その後、戸田忠厚、安川厚らが県下に布教活動を行う途中、千葉町に立寄った際、鈴木宅を伝道所として、使用するようになった。

 明治十五年(一八八二)には本町亀屋(現千葉相互銀行本町支店)において、佐倉教会の牧師青木仲武や神学生が説教会を開くなど、千葉町にキリスト教布教活動が始められた。次いで、明治十八年(一八八五)鈴木幸助ら一二名が佐倉の教会で洗礼を受け、ここに、千葉町において、キリスト教信者が誕生することとなった。

 明治二十二年(一八九〇)大日本帝国憲法が発布されて、

  第二十八条 日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限リニ於テ信教ノ自由ヲ有ス

と定められ、一応信教の自由が認められたが、日本軍国主義化の過程で、この義務の中に、神社参拝、天皇を神(現人神)として崇拝することが一層強くうちだされていった。こうして、真の意味での信教の自由は、昭和二十二年(一九四七)施行の日本国憲法において、はじめて無条件で保障されることとなった。

 戦後の一時期、既成の宗教に挑戦するかのように、新興宗教が続出するが、社会生活の安定とともに、自然に陶汰されて、今日に及んでいる。千葉市の宗教界は戦災による打撃(六―一一四表)、教団内部からの宗風刷新運動に加えて、神社・寺院所有の農地の解放、境内国有地の返還、都市計画による移転並びに縮少など経済上の打撃も大きいものがあった。

 現在、宗教の重要性が各方面から叫ばれながら、日本人の無宗教化現象がみられる。宗教界の一層の奮起が望まれる次第である。

6―114表 戦災と千葉市の諸寺院・神社・教会
(1)市内戦災神社数
県社護国神社郷社村社
指定未指定
神社数11163544
罹災神社数111003
(2)市内戦災寺院数
真言宗同豊山派日蓮宗天台宗曹洞宗浄土宗古義真言宗
寺院数2223164139
罹災寺院数62311
(3)市内戦災キリスト教教会数
教会数5
罹災教会数2

(昭和21年『市会議録綴』)