千葉神社

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 祭神は、天御中主尊、相殿に経津主命、日本武尊を祀る。市内院内一丁目にあって、ひろく千葉市民の崇敬をあつめ、初詣、七五三には多くの参拝者でにぎわう。現千葉神社の境内一帯は古く香取山と呼ばれ、香取神社の境内であったが、その別当寺(伽藍山観喜院)を平忠常の二男覚算法印が中興して、北斗山金剛授寺と改称した。のちに一条院の勅願所となって、尊光院の院号を賜っている(後に妙見寺という)。伝えによれば、妙見寺の本尊、妙見尊は平良文がもと群馬県花園村七星山息災寺に奉祀されていたのを勧請(神仏の分霊を請じ迎えること)、千葉氏の守り本尊として、各地に遷座したが、大治元年(一一二六)常重が大椎城から猪鼻城に移るとともに、現在の地(一説には猪鼻城内ともいう)に妙見尊を奉祀して、北斗山尊光院金剛授寺(妙見寺)を別当寺(神社を監理する寺院)と定めたという。以後、妙見宮(社)は代々千葉氏の崇敬厚く、世代の代わり、元服などの儀式は妙見宮において挙行している。記録によれば、源頼朝が馬二〇匹と広光の太刀を寄進し、日蓮上人も妙見堂に参詣して、微細字の法華経を奉納しており、天正十九年(一五九一)徳川家康は当社に社領二百石を寄進している。明治元年(一八六八)の神仏分離令に従って、妙見寺を廃して、千葉神社となり、明治七年(一八七四)県社に列せられた。

戦前の千葉神社

 当社は古来たびたび火災にあって、古くは治承四年(一一八〇)、応仁元年(一四六七)に焼失した記録があり、近くは明治七年(一八七四)妙見寺ころからの庫裡その他を焼失している。明治三十七年(一九〇四)の火災では社殿のほか、宝物古文書の大部分が失なわれている。この時焼失した社殿には嘉永三年(一八五〇)信州諏訪の宮大工和四郎が刻んだ彫刻(第二の日光と呼ばれた華麗さがあり、一部は昭和二十年の空襲で焼失するまで残っていた)も失なわれてしまった。明治四十三年(一九一〇)再建計画が立てられ、大正四年(一九一五)落成式を挙行している。昭和二十年七月の空襲によって、建物のすべてを焼失したが、昭和二十九年八月十三日、再建され、遷宮式をあげ、現在に至っている。

 当社の例祭は八月十六日より、二十二日までの「千葉のだらだら祭り」として有名で、全市をあげての祭りであったが、近年、交通事情の悪化などから、勇壮な神輿の渡御が見られなくなったのは残念である。