祭神は寒川比古命、寒川比売命、天照皇大神である。当社の創建は不詳であるが、明治以前は神明社、あるいは伊勢明神と称し、明治元年(一八六八)寒川神社と改称している。『延喜式』に千葉郡内に寒川神社と載せられているので、あるいは延喜式内社かもしれない。
寒川地域一帯の総鎮守社で、十数社の摂社、末社をもち、古くは当社の沖を通る船は必必ず下帆の礼をとり、陸上乗馬で通行するものは、必ず下馬の礼をとって、敬意を表したという。天正十九年(一五九一)徳川家康が社領一〇石を寄進している。当社は数回にわたる火災にあって、宝物、古文書類を焼失しており、神鏡、神幣、獅子頭が残っているにすぎない。古獅子面は相当に古く、鎌倉時代の作と伝えられているが、その裏面に文明十三年(一四八一)に社殿を再建し、この獅子面を製作したとの銘が残されている。