昆陽神社

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 「いも神様」の名称でも知られている昆陽神社は京成幕張駅前の小高い岡に鎮座している。当社の由来について、『幕張町誌』(大正五年編)によれば、享保二十年(一七三五)儒学者青木文蔵(号は昆陽)が当時の下総国千葉郡馬加村字北夜縄(現幕張町)において、薩摩芋の試植を行った。以後、馬加村で薩摩芋の栽培が普及し、天明の飢饉その他の凶作に際して、多数の人命を救い、また、馬加村は芋苗の栽培によって利益を収めたこともあって、昆陽の死後、村民は最初の試植地にその霊を祀ったのが当社の始めといわれる。当時この付近は荒砂地が続き、薩摩芋栽培を導入した昆陽に対する村民の感謝の念は非常に大きいものがあったといわれる。その後、江戸町奉行付の与力の命を受けて、給地役中台与十郎の提唱により、社殿が建立され、神社に昇格した。御神体は昆陽直筆の書といわれる。遷宮式は遅れて、一〇年後の安政四年(一八五七)のことであった。しかし、幕末から明治にかけて、社殿は荒廃、礎石さえ確認が困難な程であった。そこで、明治四十一年昆陽神社保存会が結成され、大正六年、当時の幕張町長大須賀常信らの努力によって社殿が再建され、現在に至っている。

 最初に薩摩芋の試植地となった場所は県の史跡に指定されている。なお、この土地が薩摩芋の試植地の一つとなった理由は、気候、土質が栽培に適していたほか、享保年間には幕張一帯は江戸町奉行の領地に属し、奉行配下の与力の給地と定められていた。たまたま昆陽が江戸八丁堀で私塾を開いていた土地の地主が、与力加藤又左衛門であった関係から、その給地幕張が選ばれたものである。