3 寺院

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 千葉市内現存の寺院は前記の寺院一覧(六―一一六表)のとおりである。一般に旧市街十五カ寺と呼ばれるが、古くは現在以上に多数の寺院が存在したらしいことは、祐光寺、見徳寺、法道寺、堂満橋、大地堂の地名が市内に存在している事実から推察される。千葉氏の記録としては信頼し得る書物の一つといえる『千葉伝考記』によれば六―一一七表のように、今日では全くその跡をたどることのできない寺院もあって、寺院の栄枯盛衰常なしの感が深い。寺院の統廃合は特に幕末から明治にかけて多くみられ、千葉妙見寺、登戸妙見寺(真光院)、曾我野春光院は廃寺となり、寒川真福寺は千葉寺に、本町正妙寺は本敬寺にそれぞれ合併されている。また、明治五年(一八七二)無檀家、無住職の寺院の廃止を命じた大政官布告によって、寺籍の移転あるいは合併、廃寺となったものも多い。幕張地区の八カ寺が宝幢寺に統合されたのはその代表例であろう。和田茂右衛門の調査によると、現市域において廃寺及び統合された寺院は、五〇カ寺をこえるという。

6―116表 市内寺院一覧
宗派寺号所在地本尊宗派寺号所在地本尊
天台宗千手院星久喜町阿弥陀如来真言宗真照院谷当町薬師如来
安楽院大宮町聖観世音菩薩浄土宗大巌寺大巌寺町阿弥陀如来
西光寺大宮町阿弥陀如来胤重寺市場町阿弥陀如来
泉福寺大宮町阿弥陀如来善勝寺検見川町阿弥陀如来
栄福寺大宮町阿弥陀如来大覚寺生実町阿弥陀如来
円蔵寺加曽利町阿弥陀如来浄土真宗浄願寺本町阿弥陀如来
正福寺佐和町不動尊臨済宗円福寺穴川大日如来
真言宗智光院市場町不動明王曹洞宗束禅寺亥鼻町薬師如来
千葉寺千葉寺町十一面観世音,薬師如来高徳寺亥鼻町地蔵大菩薩
光明院寒川町不動明王海蔵寺桜木町観世音菩薩
光明寺中央(吾妻町)不動明王満願寺長洲町阿弥陀如来
宝幢院院内如意輪観世音千手院矢作町千手観世音菩薩
大日寺轟町大日如来福寿院川戸町阿弥陀如来
千蔵院稲毛町薬師如来,不動明王宗胤寺弁天町聖観世音菩薩
宝蔵院検見川町薬師如来仁守寺仁戸名町観世音菩薩
広徳院検見川町大日如来重俊院生実町釈迦如来
長林寺畑町薬師如来,不動明王日蓮宗本円寺本町御曼荼羅
正善院作草部町聖観世音菩薩本敬寺本町
正福寺原町聖観世音菩薩高伝寺加曽利町
薬王寺源町薬師如来長善寺坂月町
金蔵院園生町延命地蔵菩薩長胤寺長作町
万蔵院殿台町阿弥陀如来泉福寺村田町
日永寺小中台町薬師如来上行寺茂呂町
地蔵院宮野木町延命地蔵尊浄泉寺中西町
等覚寺高品町薬師如来金城寺大金沢町
延命寺都町不動明王妙本寺遍田町
大聖寺若松町不動明王常真寺高田町
西光院貝塚町阿弥陀如来宝善寺平川町
慈眼寺宮崎町地蔵菩薩最福寺多部田町
西福寺大森町地蔵菩薩栄久寺川井町
大草寺大草町観世音菩薩妙興寺野呂町
金光院金親町薬師如来慈眼寺野呂町
宝幢寺幕張町聖観世音菩薩西谷寺土気町
真蔵院武石町柳地蔵菩薩常円寺越智町
福寿院天戸町薬師如来本休寺高津戸町
長福寺犢橋町大日如来善徳寺大木戸町
天福寺花島町聖観世音菩薩宝蔵寺上大和田町
泉蔵寺柏井町子安地蔵菩薩妙見堂教会緑町
明星寺横戸町不動明王日蓮正宗真光寺中田町
広照寺南生実町延命地蔵尊清凉寺畑町
泉蔵寺有吉町不動明王法華宗本門流日現寺誉田町
長徳寺富岡町不動明王信徳寺長作町
聖宝寺椎名崎町阿弥陀如来法華宗陣門流万徳寺塩田町
東光院平山町七仏薬師如来本門法華宗真浄寺小倉町
西光院高根町薬師如来本門仏立宗唱題寺作草部町
泉蔵寺北谷津町薬師如来妙導寺葛城町
慈眼寺下田町阿弥陀如来顕本法華宗長源寺浜野町
顕本法華宗本行寺浜野町御曼荼羅顕本法華宗長興寺大椎御曼荼羅
本満寺生実町常泰寺小食土
常福寺椎名崎町高野山真言宗誉田教会誉田
宝泉寺上泉町単立福正寺今井御曼荼羅
本城寺中野町妙恩寺登戸
正福寺富田町来迎寺阿弥陀如来
東光寺和泉町立正安国寺長州
善勝寺土気町宝玉教会黒砂
本寿寺土気町村田妙祐教会村田町
六―一一七表 『千葉伝考記』にみられる寺院
千葉中諸寺院の記
東善寺万福寺は氏胤の建立、本尊虚空蔵。
高徳寺生林寺は氏胤の建立、比丘尼の庵なり。
胤高寺福生寺は原孫次郎寺なり。今井にあり。
常古院宝徳寺流岸寺は比丘尼なり。
引乗寺は武士三郎寺なり。
泉福寺は結城出雲守寺なり。
大日寺満願寺光明寺三ケ寺は一寺なり。
来迎寺は氏胤室女建立なり。
増上寺宝幢寺両寺は辺田なり。
宗胤寺は氏胤二男宗胤の寺なり。
国分寺は常胤の五男胤道の寺なり。
胤広寺は胤政七男三谷四郎の寺なり。
貞胤一日に七阿弥陀を建立す。内室菩提の為なり。
千葉西阿弥陀、森阿弥陀、星久喜阿弥陀、大谷阿弥陀、殿台阿弥陀、仁井戸阿弥陀以上七仏、七仏の内一阿弥陀を脱せり。
6―64図 千葉市内宗派別寺院の分布

 千葉市内に現在以上に多数の寺院が存立した理由の一つは鎌倉、室町時代及びそれ以前の時代に豪族など有力者が他界した場合、その菩提を弔うため寺院を建立する慣習があったことによるといわれる。しかし、これら寺院の中には檀家はなく、時代の経過につれ、昔日のおもかげを失い、遂には廃寺となったものなども多く、特に、江戸時代千葉の地は大大名の城下町とならず、下総の一寒村となってしまったため有力者の保護が受けられず衰退していった寺院もあった。

 前記の寺院一覧のとおり、千葉市内現存の寺院数は宗教法人として届出てあるものが一三〇カ寺に及ぶが、多くの寺院は火災を蒙り古記録が焼失し、その由緒を明確にしえない。今次の戦災でも六―一一三表のように被災寺院は一一カ寺、大きな被害を受けたのは九カ寺となっている。なお、市内寺院がその由緒を明瞭にしえない理由は、他宗に改宗したためそれ以前の記録が失われて、改宗時期を創建時期としてしまったこと、寺院を権威付けるため寺の縁起を改訂し、創建時期を古くしてしまったことなどがあげられよう。

 ところで、江戸時代寺請制度のため、僧侶は積極的布教活動を停止してしまったのが一般例であった。この風潮をうけ継ぎ、明治期に千葉市内においても僧侶による布教活動はほとんどみられなかったらしい。明治二十八年発行の『千葉繁昌記』によれば、「何れも法要葬祭を行ふのみにして、説法は年中皆無と言ふて可なり」と記され、相当にきびしい批判を加えている。ただし、皆無であったわけではなく、『千葉繁昌記』は続けて、「両三年以来、浄土宗の小山了運、曹洞宗の栂仙英の二氏の首唱で仏教研究会を起し、毎月一回宛仏教の演説を為し、青年仏教信者を募集したるも、今や中止せり」と述べている。中止の理由は不明であるが、青年信者の獲得のための試みがなされた事実は記憶すべきものと思われる。更に『千葉繁昌記』は「千葉監獄」の項で「囚徒のためには曹洞宗の富士原大缶、浄土宗の小山了運の二氏仏教を以て、日々教戒せり」と述べている。千葉刑務所の受刑者に対する教戒活動はかなり以前から実施されていたらしい。現在においても、受刑者に対する宗教活動は実施され、仏教関係者のみでなく、各宗教団体が参加して、受刑者に対し宗教活動を行って、相当の効果をあげている。

 戦後、寺院は農地改革によって、所有していた田畑を開放し、財政的にも苦しんだ寺院が多かったが、一部の寺院は幼稚園の経営その他境内の利用及び市街地に所有していた土地の利用によって、経済的に安定しつつある。また、人口の増加は必然的に檀家の増加に連らなることを意味するとはいえず、市域の寺院の檀家増加も特筆すべき状態とはいえないようである。市域の僧侶の多くは公務員、教員となり、また、人権擁護委員、民生委員、児童相談員等に就任し社会的に活動している者も多い。