千葉寺

367 ~368 / 546ページ

 海上山千葉寺は真言宗に属し、本尊は十一面観音並びに薬師如来である。当寺の創建について、『千葉寺縁起』(天和のころの作)によると、平城京遷都の前年にあたる和銅二年(七〇九)諸国巡礼中の僧行基が千葉の地を訪れ、池田郷の池で千葉の蓮花を眺めて、霊感にうたれ丈六の十一面観音を刻み、聖武天皇の勅命によって、本堂その他の建物が建立されたと伝えられている。旧寺は海照山勧喜院千葉寺と称し、寺院数十カ寺、脇堂一八軒、本堂は一八間四方の大伽藍といわれたが、永暦元年(一一六〇)火災のため焼失して、現在の場所に移されたらしい。最初の創建の場所については現在の当寺の東方約九〇メートル程の所の「三界六道観世音旧跡」と記した石碑付近という説があって、今も通称「観音塚」と呼ばれる土壇跡らしいものが存在している。

 しかし永暦元年以前に、現在の千葉寺境内に大規模な寺院が建立されていた事実は前後五回に及ぶ発掘調査で明らかである(『千葉市誌』第三節第二項)。昭和二十五年、同二十七年発掘調査にあたった武田宗久は、旧寺は奈良時代ないし平安初期に千葉郡内の有力豪族の氏寺として現寺院の境内に存在していたと推定している。

 当寺は花山天皇(九八四~八六)のとき、坂東三十三カ所の観音霊場制定に際し、第二十九番札所と定められ、現在も巡礼者の参拝が多い。千葉常重が猪鼻城に居を構えて後、当寺は千葉氏の尊崇厚く、たびたび堂宇の修復を受けている。『千学集』によると千葉氏代々の当主の元服に際し、当寺の滝蔵権現(現滝蔵神社)に武運を祈願する慣習になっていた。古くは千葉寺村一円を寺領としていたが織田信長のとき、約一〇分の一に減少されたらしい。その後、中興の開山空山のとき(一五九〇)徳川家康は朱印地百石を寄進している。江戸時代に、当山は境内寺院に東光院、西光院、正寿院、本覚院、東浄院、西照院、普門院、金蔵院、東照院を擁し、末寺には大日寺、春光院、寒川光明院があった。元禄二年(一六八九)、文化三年(一八〇六)、嘉永五年(一八五二)とあいつぐ火災により、往時の繁栄の姿はしのぶべくもない。更に、昭和二十年七月六日の空襲によって、本堂(観音堂)を焼失している。

 境内に桜が多く、明治時代には花見の名所としてにぎわった。庭前の大銀杏樹は樹齢千年を越えると推定され、県指定の天然記念物となっている。当寺はさきに述べたように、数度の火災にあって、古記録を失い、わずかに千葉胤富の寄進状など数点が残されているにすぎない。一二六一年(弘長二年)十二月二十二日の銘があった通称「戻り鐘」も文化年間(一八〇四~一八)に失われたらしい。また、現在ではなくなってしまった「千葉笑」の風習も興味深い伝説といえよう。「千葉笑」については村岡良弼が『日本地理志料』の中で引用している『本朝俗諺志(ぞくげんし)』によれば、

  千葉氏ノ時、毎歳期シ日ヲ会シ庶民ヲ于千葉寺ニ、令メ恣ニ談笑吏人ノ賢否得失ヲ、号シテ日ヘリ千葉笑、吏人慚ジ之ヲ常ニ飭(ツツシメ)リ其行ヲ云、

とあるが、別に毎年十二月三十一日の夜、千葉寺に会合したとの説もある。千葉氏の時代に村人が千葉寺境内に集って、村役人らの悪口などを述べあって、日ごろの積る不平不満をはらす機会であったのだろう。

 なお、明治四十三年、幕末当時同寺の門前名主畑野勇治郎宅の竹やぶから発掘された青銅製六角形梅竹透釣燈籠には天文十九年(一五五〇)の銘があり、「下総国千葉之庄、池田之郷千葉寺」と刻まれ、一六世紀ころ千葉寺は池田之郷内にあったことを示している。

 代官も ひそかに出でて 千葉笑             一蓑

 千葉寺は 落ち葉見上ぐる 銀杏かな           雪城

千葉寺の山門