阿毘盧山密乗院大日寺は真言宗に属し、本尊は大日如来である。昭和二十年の戦災後、轟町二丁目の現在の場所に移転しているが、戦前は通町(現、中央一)にあって、千葉寺に次で創建が古い由緒ある寺院である。
弘化二年(一八四五)同寺の高全和尚の筆による『大日寺縁起』によると、七五九年孝謙天皇の勅願により、仁生菩薩を開山にたのみ創建されたと伝えている。一方、『鎌倉大草紙』によると、千葉頼胤が小金城(現松戸市)に在城中鎌倉の良観上人を迎え、馬橋の里に大日寺を建立、源氏三代の将軍の霊を弔い、あわせて千葉家の菩提寺とし、貞胤の代に千葉の里に移されたと伝えている。村岡良弼著の『千葉日記』(明治十三年八月五、六日)に良観はまたの名を忍性菩薩というので、仁生は忍性を誤って用いたと述べている。一般にこの説が認められている。
境内には千葉常重ら千葉家十六代の墓と伝えられる五輪塔が存在し、昭和三十四年市の文化財に指定されている。天正十九年(一五九一)徳川家康は当寺に朱印地一〇石を寄進しているが、千葉家没落後、次第に衰微し、寺宝の多くは失われて、今はわずかに千葉胤正夫人の寄進の直径八寸の銅鏡がある(日月星三光の御鏡)。古記録も明治初年の火災で全く焼失、今次大戦の戦災で全山焼失の不幸にあって、轟町に移転したのである。