本尊は安阿弥作と伝えられる阿弥陀如来である。もと来光寺と称し、時宗に属し、建治二年(一二七六)一遍上人を開基に、千葉貞胤によって建立された。天正十八年(一五九〇)徳川家康が満誉尊照大僧正に命じて、浄土宗に改め、智東山聖衆院来迎寺とし、寺領五〇石を寄進している。尊照大僧正は万里小路秀房の子、正親町天皇の甥に当たる。後に伏見宮真如院照満尊空親王が当寺の住職となり、当寺の名声は大いにあがったといわれる。境内には法親王の墓のほか、応永三十二年(一四二五)二月十五日と刻まれた千葉氏胤以下七基の追善供養碑が存在している。氏胤は和歌にすぐれ、『新千載集』に「人知れず いつしか落つる涙川 渡るとなしに 袖ぬらすらん」などが載せられている。
当寺は昭和二十年の戦災で全山焼失、昭和二十二年現在の轟町一丁目に移転している。今は包括宗教団体であった浄土宗から離れ、単立として一宗一寺の本山となっているが、移転事務完了後は浄土宗に復帰する予定といわれる。
なお、時宗来光寺時代の当寺の末寺に祐光寺、仏光寺、長光寺があり、浄土宗時代には相応寺、順正庵などがあった。