栄福寺

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 天台宗延暦寺の直末寺で、本尊は阿弥陀如来である。伝えによると、大治五年(一一三〇)九月二十二日千葉氏の家臣坂尾五郎治が、現在の寺域の西方にあたる旧長峰村三角山に、千葉家の守護神妙見尊を奉祀したのが、当山の発端といわれる。五郎治は千葉家第二代常長に仕え、常長の養育に当たった人物である。

 天承元年(一一三一)五月二十二日五郎治が願主となり、上坂尾に、尊照僧正を開山導師として北斗山金剛授寺(後の栄福寺)を創建している。あわせて、当寺の守護神として、大宮権現(現大宮神社)を建立している。はじめ真言宗に属し本尊は地蔵菩薩であった。寛永二年(一六二五)正月十七日当時の住職快運和尚が天海僧正に帰依し、近隣の末寺二八カ寺とともども天台宗に改宗し、如意山養福寺無量院と改称して、本尊を阿弥陀如来とした。慶安二年(一六四九)九月栄福寺と改め、昭和十七年に山号を坂尾山と改称現在に至っている。当寺の本堂に向って右側に妙見地蔵堂があって、妙見尊のほか、かつて境内の姫桜の下から出土したと伝えられる病難除地蔵尊(土中出現童子地蔵大菩薩)を祀っている。この地蔵尊は当寺の天台宗時代の本尊であろうか。今も栄福寺というより坂尾(さんご)の地蔵様として広く知られている。境内には杉松の老樹のほか、桜樹が多く、花見のころは千葉の美観として歌によまれている。

 寺宝には天正二年(一五七四)原式部大夫平胤栄寄進との銘文のある鋼製金箔付釣燈籠。狩野探幽門人片山三清守長筆の妙見縁起絵巻四巻、(天文十九年(一五五〇)本庄伊豆守が寄進し、延宝六年(一六七八)板倉筑後守重直補綴)などがある。なお現地域は板倉筑後守の屋敷跡にあたり、附近に土塁跡がみられる。

明治期における栄福寺の全景