創建年代は不詳であるが、平安初期とする説がある。もと真言宗に属し、極楽法寺と称していたという。
酒井小太郎定隆(後に越中守)が土気城主となった後は酒井家の菩提寺となっている。定隆は浜野郷に本行寺を建立した日泰上人に深く帰依し、寛正五年(一四六四)当山を日蓮宗に改宗するよう命じている。定隆は日蓮宗を領内に布教するため、日泰上人を土気に招き、如意宝珠山本寿寺を開き、中野村に如意山本城寺を興すが、同時に上人の命名によって、当寺を宝珠山善生寺としている。当寺は日蓮宗の中でも、京都妙満寺を本山とする顕本法華宗に属しているが、上総は同宗の盛んなところで、善勝寺は顕本法華上総一〇ケ寺の一つに数えられている。
天正十九年(一五九一)徳川家より五〇石の寄進を受けて、境内の竹木諸役は免除となった。善生寺を現在の善勝寺と改めたのもこのころといわれる。安永年間(一七七二~八一)に火災にあい、間もなく再建されたといわれる。当寺には、日泰上人真筆の曼荼羅、元享の年号のある梵鐘、定公着用と伝えられる鎧の断片が伝えられている。また、善勝寺境内は景勝の地として知られ、大正二年発行の『土気古城再興伝来記』に「月に奇にして、雪に勝あり、四時の観皆善し、実に県下一二の勝地にして、善勝の名亦美ならずや」と形容している。