大巌寺

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 竜沢山玄忠院大巌寺は浄土宗知恩院の末寺で、本尊は阿弥陀如来である。千葉氏の一族、小弓城主原式部大夫胤栄及びその夫人の龍沢尼(盈誉龍沢利貞と追号される)が導誉上人を開基に迎え、天文十七年(一五四八)――天文二十年の説もある――浄土の教えを広める道場を創設したのが、当山の創建といわれる。創建にあたり、原氏は龍ケ沢一帯を当山に寄進しているが、更に天正五年(一五七七)寺屋敷として百石を保障している。江戸に居をかまえた徳川家康も深く当山に帰依し、あらためて、寺領百石を寄進するほか、浄土宗の僧侶養成機関としての地位を当山に与えている。

 永禄二年(一五五九)創建に着手し、五年の歳月を要して完成した壮厳な堂塔は享保三年(一七一八)の火災によって焼失したが、享保十二年(一七二七)再建に着手して完成したのが現在の建物である。本堂は一三間四方、庫裡は間口一二間奥行一〇間半、山門は間口五間半、本堂正面に掲げられている扁額の「大巌寺」の文字は桃園天皇の御親筆と伝えられている。

 代々徳川家の崇敬を受け、葵紋散しの大襖子(ふすま)、家康の朱印状など、徳川家ゆかりの品が残されており、歴代住職は将軍の命により任命されていた。そして、明治二年、勅願所とする旨の御沙汰が下されている。天国の宝剣、胤栄夫人愛蔵の阿弥陀仏及び古鏡、正中二年(一三二五)源家重の銘入りの鉦(かね)、歴代住職の書蹟等の古文書などの寺宝が多い。

 境内の裏山は通称「鵜の森」と呼ばれる鵜の群生地で、県指定の天然記念物であったが、寺林の伐採や東京湾の埋立てや汚染のため、鵜は姿を消している。

大巌寺