如意山本行寺は顕本法華宗に属し、京都妙満寺の末寺である。当寺は文明元年(一四六九)浜野郷高縄にあった一廃寺を再興し、日泰上人が堂宇を建立したのに由来している。
日泰上人は円頓房心了と号し、本行寺のほかに数十の寺院を開基、改宗し、上総、下総に法華宗(日蓮宗)を広めたといわれる。土気町の本寿寺、生実町の本満寺、遍田(へた)町の妙本寺、中野町の本城寺、上泉町の宝泉寺は日泰上人の開基である。上人は土気城主酒井小太郎定隆の帰依を受け、定隆は長享二年(一四八八)領内のすべての寺院に対し、日蓮法華宗に改宗することを命じている。いわゆる、「七里法華」であるが、当寺は七里法華の開山根本寺といえよう。
豊臣秀吉は小田原に北条氏を攻め滅ぼすが、土気酒井家は北条氏に従ったため、秀吉の家臣浅野長政は酒井家を攻撃した。この合戦にまきこまれ、本行寺も遂に炎上したといわれている。天正十九年(一五九一)徳川家康は当寺に朱印地一〇石を寄進している。
当寺は日蓮宗の中の不受不施派に属し、法華経の信者以外の者からは供養を受けず、また、法華経の僧侶以外の者へは財物を与えないことを信条としている。このため、徳川幕府は寛永七年(一六三〇)、寛文五年(一六六五)、元禄四年(一六九一)に不受不施派禁令を出すが、信徒は表向きは他宗をなのり、内面は不受不施派の信仰を守ったといわれる。当時の住職の中にも一〇世日逞のように、不受不施を唱え流刑に処せられた人物がでている。なお、当寺に伝来されている不受不施派関係古文書は市指定の文化財となっている。