4 教会

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 千葉市域におけるキリスト関係の教会一覧は六―一一八表のとおりである。

6―118表 市内教会一覧
包括団体(教団)教会(含伝導所)所在地
日本キリスト教団千葉本町教会東本町1―3
千葉教会市場町15
西千葉教会松波2―7―3
千葉南教会宮崎2―6―20
四街道伝導所小深町19
花園伝導所花園町2434―1
日本聖公会千葉復活教会新田町164
日本ナザレン教団千葉教会穴川2―12―13
学園教会小深町90―3
日本ホーリネス教団千葉栄光教会仁戸名町424―47
インマヌエル総合伝導団千葉キリスト教会葛城町309―1
日本福音ルーテル教団千葉教会稲毛台23―7
基督聖教団千葉教会椿森2―20―5
単立千葉聖書センター天台1―7―17
日本福音教会連合検見川教会検見川5―2213
園生伝導所園生町256―7
改革派(日本基督改革派教会)千城台教会千城台西町1―751
花見川キリスト教会柏井町1660―8
日本バプテストバイブルフェロシップ千葉教会新千葉3―1―2
仁戸名教会仁戸名町656―15
幕張教会幕張4―639
日本カトリック教会西千葉教会汐見ケ丘11―14
千葉寺教会千葉寺町70
セブンスデーアドベンチェスト日本連合伝導部会千葉教会桜木町492―5

 現在、日本のキリスト教会は日本カトリック教会(天主公教会)、日本ハリストス教会(ロシア正教会)、プロテスタント各派に分かれている。このうち、明治六年(一八七三)キリスト教禁令が撤廃されると、活発な伝導活動を展開、宗教界のみならず、近代日本の多方面に大きな影響を与えたのはプロテスタント(新教)である。幕末から明治にかけて、とりわけアメリカ合衆国のキリスト教会は日本での布教活動に熱心で、多くの宣教師をわが国に送りこんでいたのである。ところで、当時のアメリカ合衆国のプロテスタントは多数の教派、教団が乱立の状態であり、これらの教派、教団は互いの連絡もなく、自派の勢力拡大を日本で図っていた。その結果、わが国では多くのプロテスタント各派が分立するに至った。しかるに昭和十六年、宗教団体法の制定によって、キリスト教会の合同が強制され、当時の三二の教派が日本基督教団を結成した。ただし、カトリック教会と日本聖公会(イギリス国教会)はこの合同に参加しなかった。戦後になって、日本基督教会から分立する教派が続出し、そのうえ、海外からも新しい教派が伝えられるなどして、現在は百をこえるプロテスタント各派が宗教教団として届出されている。

 六―一一八表のように、千葉市内においては、一〇をこえる教団が存在するがカトリック教会を除いて、他はすべてプロテスタントに属するものである。約二〇に及ぶ千葉市内の教会のうち、明治期に建設されたのは、市場町の日本キリスト教会千葉教会が最も早く、ついで通町にあった日本同盟基督協会千葉教会、亥鼻台下にあった日本天主公教団所属のカトリック千葉教会、新田町の日本聖公会千葉復活教会、それに明治末年に閉鎖されたといわれる福音普及教会である。明治期にあっては、キリスト教に対する千葉町の住民の理解は十分とはいえず、現在の日本キリスト教団千葉教会(市場町)の伝導集会に対する石や瓦の投入、悪口雑言、時にはキリスト教集会の隣りで「ヤソ教退治の演説会」が開かれるなど各種の妨害があったといわれる。キリスト教は一応公認されたとはいえ、千葉では好奇な目で眺められ、信者数も急速には増加しなかったようである。比較的多かったのは千葉師範学校、同女子師範学校、千葉医学専門学校生徒、看護婦など、若い人々が外人宣教師から英語を学ぶうちに入信する場合が多かったといわれる。

千葉教会

 一般にキリスト教会は英語教育、医療活動を経て、次いで教会設立の形が多いが、千葉町では伝導師が佐倉、木更津方面への伝導の途中立寄って、伝導所が開かれ、教会に昇格したケースが多いように思われる。その代表例が市場町の教会と新宿小学校前にある日本聖公会の教会である。ただし、昭和四年設立の東本町の教会は英語講習所をその出発点としている。

 明治から大正にかけてのキリスト教信者数を正確につかむことは不可能であるが、市場町の日本キリスト教団千葉教会発行の『回顧五十年史』(大正十五年発行)によれば次のとおりである。大正十四年十二月までの五〇年間に、受洗者及び他の教会からの転入者総計七〇三名、在籍のまま永眠した者一〇七名、他の教会への転出者一三五名、除名処分を受けた者八七名で、現在会員三七九名、うち千葉市及び近隣居住者一二三名(六九世帯)となっている。このうち月々の献金などの義務を果たしている者は四〇戸という状態となっている。千葉教会も伝導所、講義所と呼ばれた時期は他より経済的援助を受けていたが、教会となった時点からは経済的にも独立していたので、四〇世帯で教会を支えることは困難をきわめたらしい。一時は牧師の給料支払いにも困るほどと伝えられている。このような困難な状況のもとで、明治四十一年から昭和二十五年まで牧師の職にあったのが森岡謹吾牧師である。師は千葉市にあっては通町教会の杉本光平牧師とならんで、キリスト教布教に尽した人物として長く記憶さるべき人物といえよう。

 戦後、日本国憲法によって信教の自由は何らの条件もつけずに保障された。千葉市内にあっても、キリスト教は積極的な布教活動を展開、着実に信者数を増加していった。しかし、最近は単に信徒数をふやすのではなく内面的な信仰心をより高めることに重点が置かれている。特に今度の第二次世界大戦に際し、キリスト者として、いかに対処したかを深く反省し、平和の問題が牧師、信者の間で論議されているといわれる。