明治のころの千葉は、茅葺屋根の家屋が連なり、消防の組織や器具が貧弱であったので、一度火災が発生すると、その被害はかなり大きなものになっていった。その主な例をあげると次のようである。
・明治十四年(一八八一)一月二十九日、吾妻町火災 三二八戸焼失
・明治十九年(一八八六)一月二十一日、本町火災 五〇戸焼失
・明治二十五年(一八九二)四月十日、吾妻町から出火して本町に延焼、四一七戸焼失
このように大火が相次いだので、明治二十七年(一八九四)に、千葉町消防組をはじめて組織し、千葉・寒川・登戸の三消防組に分かれていたが、同三十一年(一八九八)に改組して、千葉消防組第一部から第七部まで編成した。
ところが、このように組織された消防組の献身的な努力にもかかわらず、その後も大火は次々に発生した。
・明治三十三年(一九〇〇)二月二十六日、本町火災 一六〇戸焼失
・明治四十年(一九〇七)六月十一日、登戸火災 四五戸焼失
・明治四十一年(一九〇八)二月十二日、寒川火災 三八〇戸焼失
このように火災がひんぴんと発生したので、加藤久太郎町長は、同四十一年十一月、各区長と協議して防火組合を組織した。この組合の条文には、「本組合は共同防火のため千葉町各区内現住者にして、一戸を構うるものを以て組織す。本組合は区内二〇戸ないし二五戸を以て一組とす。毎年十一月一日より翌年四月末日までの期間は、各戸その門前に四斗樽または用水桶を備え置き常に非常用水を貯うること。烈風の時は組合員輪番に就眠前組合内の空屋、その他火の元見廻りをなすこと。などが掲げられている。
こうした町民の防火思想の啓蒙と共同の警戒が、やがて普及する電燈とともに、火災を激減させることにつながっていくのである。
また、明治四十二年(一九〇九)十二月十三日、東京日本橋の市原諸機械製作所から二、二二五円で、新式の蒸気ポンプ一台を購入した。従来の腕用ポンプに比べれば、正に文明の利器で、当時の加藤町長は「現在組織せる八部の消防組にこれを提供せば、従来に比して数十倍の消火力を増大するのみならず、これを運転して活動する時は、あたかも沛然として大雨を降らすごとくなれば云々」とその性能を述べている。しかし、このポンプは蒸気を起こすまでに時間がかかり、いざという場合あまり役だたなかったので、いたずらに器械小屋の奥に死蔵され、昭和十年ころ払い下げられた。
しかし、大正から昭和へと時代が移るに伴い、消防の部数も次第に増加して、常備消防部一、その他一三部を数えるようになり、器具類は改善され、施設は充実し、消火栓も随所に設置され、貯水池も増加し、更に昭和十二年(一九三七)、隣接町村が合併されたのを機会に消防組の改組、充実を図ったので、市の消防機能は非常に高まった。
同年、日華事変が始まってからは、消防組は警防団に改組され、消火以外に、防空、その他警防の任に当たるようになった。この警防団は、昭和二十年(一九四五)八月終戦後に、消防団と改組した。
これまで、千葉市の消防は警察の管轄下にあったが、昭和二十三年(一九四八)三月八日、新たに消防組織法が制定され、消防は警察から分離して、市長の直接管理に属することになった。そして、消防本部、消防署及び消防団が設置され、それぞれ緊密な連携のもとに市の消防に当たることになった。
更に、昭和四十一年(一九六六)には、千葉市消防特別救助隊が発足して、高層建築物等の火災防ぎょや人命救助などに当たることになった。同四十三年(一九六八)二月一日激増する千葉港の出入船舶の災害に対処するため、水上消防出張所を開設して、消防艇「はごろも」が配置された。
このような経過をたどりながら、昭和四十五年(一九七〇)一月一日、消防本部の名称を「千葉市消防局」と改め、現在三消防署一〇出張所(ほかに特別救助隊と水上出張所)の消防態勢で、千葉市の防災に対処している。