1 千葉神社

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 千葉神社の祭礼の創始から江戸時代・明治初期に至る推移は近世の章で詳述されているので、本項では明治以降を中心に記してみたい。

 千葉舟と結城舟の二隻の御舟による華麗な祭礼風景は、古老によって自慢げに伝承されているが、それが見られなくなったのは明治十年代であったといわれている。明治十年代といえば、ちょうど千葉に電信線が張られたころであり、その電線のために御舟を引くことができなくなったという説もある。以後、御舟に変わって祭礼の中心となったのは神輿渡御であり、祭礼の範囲も、戸数の増加に伴って拡大した。このころから、神輿渡御の道筋以外の町内もそれぞれ奉納物を納めて渡御を仰ぎ、門前を除く各町内で交互に祭事を年番で行うようになった。そして明治三十六年(一九〇三)から、それまで神輿の受け渡しを警護することを専門にしていた門前(現在の院内町)をくわえて、完全な年番制がとられるようになった。

 祭日が現在のように八月となったのは明治中期からである。このころからの祭事の模様は、十六日の早暁に行ってきたみそぎの儀式が八月十五日になったのをはじめ、かなり変化している。

 まず八月十五日の夜、神主及び氏子総代、院内(門前)の若者多数に守られた高張提灯を先頭にして向寒川(現神明町)の俗称「まあとの家」に小休止した後、妙見洲において斎戒沐浴みそぎの行をして帰り、真夜中に、神輿に御魂移しの神事を行うようになった。この日、海保家では、祭礼に間に合うように自家の畑で裁培した芋を、はな芋(その年の最初にできたさつまいも)として、ごちそうに出すならわしがあった。

 翌十六日午後一時、御鉾、太鼓、神輿の順に列を整えて出発、香取神社で孔雀をつけ、横町(現中央)、南・北道場(現道場南・北)、通町(現中央)、新町、吾妻町(現中央)を渡御し、市場町の御仮屋にはいった。

 二十日は、寒川の若者によって寒川町内を渡御した後、神輿は海に入って沖に向かい、午後十時過ぎまで海中をねり、上陸するとまっすぐに御仮屋へ入るという「御浜下り」を行った。この御浜下りの神事は、古くから妙見尊が海に入らないと漁がないという伝承にもとづいたものであり、寒川の六人衆が神輿にかける紫絹の網を奉納したということが、延享三年(一七四六)の『寒川村指出帳』に記録されていることなどから、妙見社と寒川の関係の深さをものがたっているといえよう。

 二十二日の本祭になると、御仮屋を出た神輿は、市場町、本町を渡御し、院内町に出て香取神社から再び院内町を一巡し、円墓地山の妙見社で孔雀をとりはずすことになっていた。特に本社へ還御の祭の山門前の行事は、午後十一、十二時に及び、時には午前一、二時になることもまれではなかった。この山門前でくりひろげられた、神輿を山門の中に通す、通さないをめぐる争いは、神輿に向かって肩車で攻めこんだり、ますによじのぼったり、門前の庶民勢力と千葉家の勢力、すなわち新旧二つの勢力がぶつかりあって激しく談合する情景を生み、壮観をきわめたものであった。

 千葉神社の祭礼は「だらだら祭り」とも呼ばれているが、これは明治後期からである。本来は「太鼓祭り」とか「裸祭り」として近郊近在に知られていたものである。当時の参詣人は現市域内の村人はもちろん、その周辺の村々や、遠くは旭、横芝方面からも集まるというように、房総では有名な高市のひとつであった。このころの参詣の風習として伝えられている例として宇那谷、勝田(現八千代市)の場合がある。この地区の新盆のある農家では、必ず妙見に参詣したり、七歳と五歳の子どものある家は、亥鼻のお茶の水に参詣した後、妙見で、お札をいただき、千葉ざると生姜を買ってかえり、お礼の品にした。また遠く旭、横芝の人々は、お茶の水の水を汲んで帰り、妊婦のためにその水でご飯をたいたり、餅をついたりしたといわれている。

 当時の祭礼の景観は、大和橋から市場町の、御仮屋までの道路の両側に、ぎっしりと夜店が並んだ。その中では特に生姜店が多く、おもちゃ店などともに、カンテラの灯も明るく、殊のほかにぎやかであり、沿道の軒先には御神燈をつるし、榊の木を立て、神輿渡御のときには、酒、西瓜を出して接待した。各町内でも競って山車、踊屋台、飾り物を奉納し、にぎやかに興を添えた。明治から大正初期までは、神輿が御仮屋にある六日間の祭期中は「七日詣り」と称して、毎日参詣する人々が多かったので、そのにぎわいも想像できよう。

 神輿をかつぐ衣裳は、晒木綿の伴天の襟に町名、背に月星の紋(千葉氏の家紋)を染めあげ、縄帯に半股引、白足袋といういでたちであった。

 太鼓たたきの人々は、そろいの浴衣で、腰に火打袋をさげ、白の足袋はだしになり、五尺に余る太鼓をたたき破ることを各町内の若者たちは大きな誇りにした。太鼓年番ともなると、大人も子どもも背に朱で月星を、襟に大人は町名、子どもは左襟に町名、右に小若連と染め出した浅黄の伴天、紺の腹掛、煉瓦積模様の紺の股引、算盤玉模様こげ茶色の木綿の三尺で花笠を背にかけて御鉾を引いた。

 このときの山車は山門の門前に小屋ができ、山車の人形は、源頼朝が鶴ケ岡八幡宮の放生会で、千葉成胤に鶴を抱かせた図であった。子どもたちの楽しみは、行く先々で、親類や知人からごちそうになったり、祝儀をもらうことであった。

 このように、はなやかなにぎわいをみせた千葉神社の祭礼も、時代が進むにつれて、その風習や伝統が徐々にくずれ、太平洋戦争になって急速におとろえた。

 しかし近年になり、往時の面影を見い出すことはほとんどむずかしくなったとはいえ、八月の千葉港まつりに組みこまれ、新しい祭礼の姿が市民に親しまれてきている。近代的なビルの林立する銀座通りを、古式豊かな神輿が渡御する光景をみると、何かアンバランスの中に、新しい時代の息吹きを鮮烈に感じる。この祭りに寄せられた市民の連帯感が、やがて大きな輪になり、未来を築いていくエネルギーになるものと高く評価したい。

大正期の千葉神社祭礼

○ 最近の千葉神社例祭行事次第

八月十六日 例祭開始、神輿発御各町巡幸、音頭行列、奉納演芸、巫女舞

  十七日 素人演芸大会

  十八日 少年相撲大会

  十九日 祈願祭、音頭舞踊大会

 二十一日 素人演芸大会

 二十二日 神輿御仮屋より各町巡幸、本町通り渡御、音頭行進、神輿本社還御、奉納演芸、巫女舞

○ 千葉港まつりの主な行事

七月下旬  港のつどい、ミス千葉港コンテスト

八月中旬  花火大会

八月十六日 みこし渡御、市中踊り行進、納涼まつり、在港船慰問、のみの市

八月二十日 寒川神社みこし渡御