この神社は明治以前までは神明社、または伊勢明神と称されていたが明治元年、社号を現在のように寒川神社と改号した。
伝承によれば、古くから寒川沖を往来する船舶が当社沖合にさしかかると、礼帆といって、帆をなかば下げて航行したり、社前を馬で通行する者は、必ず下馬して敬意を表すことを常とするなど、深い信仰を集めていた。
祭礼の記録をたどると『千学集』に、「結城舟は天福元年(一二三三)七月二十一日、第十二世千葉介時胤の御代の事也、妙見社祭礼御浜下りの御送舟也。……」とあり、昭和初期までは、妙見社(千葉神社)の祭礼の一部として行われていた。現在のように神輿をもち、八月十九日から二十一日までを祭期とするようになったのは昭和十年代のころであろうと土地の人々に言い伝えられている。
かつて、寒川神社の祭礼の、圧巻は、八月二十日、大漁祈願や航海安全を願って行われた神輿の海上渡御であった。この海上渡御は、二百貫余りの重さの大神輿を、出洲海岸の石造りの大鳥居から妙見洲まで、若者のかけ声も勇ましく、豪快に海上を渡御するものであった。しかし残念なことに、昭和三十八年、出洲海岸地区の埋立てによって、大鳥居は姿を消し、海上渡御の方法もすっかり形を変えてしまった。現在では外国船も繋留されている千葉港出洲岸壁から、タグボートによって、神輿を乗せた船をひき、千葉港の沖合を海上巡幸している。
寒川神社の祭礼のしくみは、現在も受けつがれ、神明町・出洲、新田町・寒川二・三丁目、寒川一丁目・港町・長洲町・末広町、新宿町という四組編成からなる年番制をとっている。
祭事の内容も八月二十日に集中し、神輿の海上渡御の後、年番町内の神輿巡幸と稚児行列を行っている。翌二十一日は、年番の町内を中心に子ども神輿、踊り、演芸などがくりひろげられるが、すべてスケールが小さくなってしまった。
また、寒川神社には、獅子頭一体が御神体として、奥殿に祀られている。この獅子頭は桐材を使用し、漆塗刻法の、力強く、古雅なものである。内側には文明十三年(一四八一)の次の朱墨銘があるが、様式は法隆寺に伝わる獅子頭に類似しているところがあり、制作年代を鎌倉期とする説がある。
依為大破神明之
獅子面並宮殿
奉建立也
〓文明十三年辛丑
九月廿日
本旦那 民部太夫政吉
次旦那 原次郎五郎弼次
獅子頭について、次のような伝承が寒川の人々の間に残されている。
ある時、漁師が海に投げこんだ網の中に、獅子頭が入ったので、珍らしいことだと神明社に祀った。ところが、以後、当社の沖合を航行する船舶がしきりに転覆するようになった。その原因は、獅子頭のたたりではないかといわれるようになり、現在の神殿の下に石室を築造して、これを封じ埋めたところ、船の転覆がなくなった。これが今、神殿に祀られている獅子頭である。