鎮守登渡神社の前身、白蛇山真光院定胤寺(別名、登戸の妙見様)は千葉家の末孫、登戸権之介平定胤が祖先追善のため、千葉妙見社の末寺として、正保元年(一六四四)に創建したと神社の古文書に明記されている。
登渡神社の祭礼は、現在、九月五日を例祭日とし、隔年ごとに神輿を巡幸するという祭事になっている。このことについては、次のような二説が伝承されている。
ある年の祭礼の際、村内に大喧嘩があったため、佐倉藩の領主から祭礼の執行を固く禁止された。その後、佐倉藩主堀田氏が、江戸から国入りのとき、船を利用して登戸港に着船したが、干潮のため、藩主はじめ家来の人々までを、村人たちが背負って遠浅の海を渡したのでたいへん喜ばれた。そのほうびとして、祭礼の復活を願い出たが、前々の事件もあることから、隔年に祭礼を執行することが許されて現在に至っているという説が、その一つである。
また一説では、安政二年(一八五五)、江戸小網町若松屋嘉七という人が、登渡神社(当時、妙見尊と呼ばれていた。)を深く信仰し、神輿一基を奉納した。氏子の若者たちは、その年から神輿をかつぎ出して村内を巡幸した。翌年には、二回もかつぎ出したので、佐倉藩主堀田正睦の聴聞するところとなり、以後九月の例祭日といえども神輿渡御が禁止されてしまった。その後、安政四年(一八五七)四月、藩主堀田氏公用のため上洛の帰途、江戸より海上を経て登戸港に上陸し、登戸村の高橋善七方を宿所に当てて宿泊した。このことを知った氏子の若者たちは、藩主をなぐさめようと、前後をもかえりみず神輿をかつぎ出したので、近習の者はいたく心配した。しかし堀田氏は、このことをかえって喜び、佐倉へ帰着した翌年、「神輿神幸の旨、苦しからず、将来とも差許す」という沙汰を下命された。以後、神輿の渡御を毎年行うようになったが、明治三十三年、例祭日を七月五日に変更、経費節約を目的に神輿渡御は隔年と定められた。更にその後、祭日は九月五日に執行するように改められた。