稲毛浅間神社の創始は、縁起によると、大同三年(八〇八)平城天皇のころ、村人により富士浅間神社を勧請したことによるとされている。
その後、治承四年(一一八〇)には源頼朝が東六郎胤頼を使者として御幣物を捧げて武運の長久を祈願したということ、また、代々の千葉氏の信仰が厚く、参詣したことが記録に残されている。祭神は、木花咲耶姫命、瓊々杵命、猿田彦命の御三神である。
この神社の主神、木花咲耶姫命が御産をされるときに、御殿に火をつけて無事安産された、という伝説にもとづいて、古くから、火難除、安産子育ての守護神という御神徳があり、近郊近在の人々の信仰を集めていた。このことに関連して、浅間神社には、毎年正月十四日の晩、境内の浄(きよ)い地を選び、かがり火をたき、氏子をはじめ、一般参詣人の安産祈願を行う冬の祭事がある。
例大祭は、毎年夏七月十五日、火難除、安産子育ての守護神の祭礼が行われる。古くから周辺の農家の人々たちの信仰を集め、一歳、三歳、五歳、七歳の子どもをともない、海中にあった一の鳥居をくぐって本社に参詣して御守札をいただき、自宅に帰ってから、安産子育ての神のみしるしとして、御札をわかちあう風習があった。
現在でも一部には、このような風習が残されているものの、多くは、夏祭りを楽しむ参詣人がほとんどであり、千葉市内はもちろんのこと、県内各地及び東京方面からの人々でにぎわう。例大祭当日には、京成稲毛駅から国道十四号線に至る浅間神社への道路は、車両が通行制限され、道路の両側や参道にかけて数百軒の露天商が店をつらね、十数万人の参詣人で市内随一のにぎわいをみせる。しかし、国道十四号沿いまで遠浅の海がせまり、浅間神社の台地上の古松と調和して、美しい風景を見せてくれた稲毛海岸は、今や千葉海浜ニュータウンの中心地として、大きく変貌しつつある。遠浅の海は、広大な埋立地と変わり、数百棟の公団住宅のビルが林立し、近代都市が出現している。かつて、渚近くにあった一の鳥居は、国道沿いにわずかな小松にかこまれて、ひっそりと立っている状態である。
千葉市指定天然記念物として有名な境内の老松は千葉市名勝の一つである。浅間神社境内をふくむ丘上四、八一八坪の広大な松林を形成している。この森は、浅間神社創建以来、次第に形成されたものといわれているが、特に天正十七年(一五八九)二月十八日、地頭大野勘解由左衛門が社領三〇石を寄進し、また寛文五年(一六六五)八月三十一日、地頭浅倉仁左衛門と、石川土佐守が、入会地松林五反歩を寄進して武運長久を祈願したことに負うところが大きい。現在の所有者は浅間神社領と国有地に分けられている。
千葉県無形文化財に指定されている巫女舞、猿田彦命の舞をはじめ、十二座の神楽舞(第二巻「近世近代編」一〇八ページ参照)も、七月十五日の例大祭の当日、神楽殿において奉納される。
この神楽舞は、永正元年(一五〇四)に九州地方から伝えられたもので、昔から「何某どん」と呼ばれる旧家の長男を中心に、土地の人々によって伝承されてきた。巫女の舞は、神をまねきおろすための神がかりと、清めの意味をもち、猿田彦命の舞から、天の岩戸開きの舞などは、日本神話を骨子として組みたてられたものである。最後に舞う御囃子の舞は神を送るための舞いで、終始無言のまま黙劇風に筋をはこび、またすべて仮面を用いている。これらのことから、江戸神楽の系統を取り入れた特色をもつものといわれている。
境内の左手にある神楽殿は、能舞台を模して、作られている。