船橋市二宮町三山に鎮座する二宮神社は、古くから近郷二十四カ村の総社として格式が高く、その七年祭は有名である。二宮神社の境内は、樹木繁茂し、遠い歴史と神秘な伝説を有し、お産の神様として知られる。素盞男之命、稲田姫命、大国主命、藤原時平を合祀している。
七年祭は、七年に一度、丑年と未年の十一月十六日、三山(みやま)の御神(二宮神社)と左記の諸神が、三山字神揃場に会し、更に千葉市幕張町幕張海岸に神輿巡幸をして、盛大に祭礼の儀式が行われる。
父君 二宮神社 船橋市二宮町
母君 子安神社 千葉市畑町
産婆役 三代王神社 千葉市武石町
傳子(もり)役 子守神社 千葉市幕張町
叔父君 菊田神社 習志野市津田沼町久久田
姫君 大原神社 習志野市実籾
時平神社 八千代市大和田
高津神社 八千代市高津
皇子 八王子神社 船橋市豊富
以上のような役割によって行われる七年祭において、千葉市の神社が分担するのは三社であり、神輿巡幸によって催される磯出祭が、幕張海岸を会場としている。現在では幕張海岸も埋立工事が進められ、往時ほどの盛大な七年祭をみることはできないが、それでも、保存に熱心な人々の手によって、かなり古式豊かな祭事が残されているようだ。
古書伝記などによって祭礼の起源沿革をみると、王朝時代のこの地方は、三山の荘(二宮、津田沼、幕張、検見川、大和田)と呼ばれて、二宮には、都から派遣された荘園のおさ(荘官)が駐在し、この地方の中心地であった。
地形的にも、現在の二宮神社近くまで東京湾の入江がはいりこみ、役人などの交通路は、相模国から船で海を渡り、袖子ケ浦より久久田、藤崎、田喜野井(現習志野市)を経てこの地に上陸した。これらのことから、七年祭に参加する地域が、古くから強い結びつきを有していたことが考えられる。
弘仁年間(平安時代)になると、荘園のおさは瑳峨天皇の命を拝し、当社を荘園内全部の総社として、毎年七月十五日に、小さな舟を造り、社前の御手洗川へ流す舟流しの神事「宮薙祭」を行ったといわれている。
室町時代になると、千葉介平満胤二男、馬加陸奥守平康胤が馬加城に封ぜられ、三山神社を敬い、家臣を引つれて参拝することが多かった。たまたま、康胤の後室が懐妊の折、康胤は三山神社神官、馬加本郷素加神社神主、畑村子安神社神主、武石村三代王神社神主に安産祈祷を命じた。更に文安二年旧九月十五、六日の夜、馬加の磯辺に葉付の竹垣を結い、注連を結び、三山、武石、畑、馬加の神輿を渡御させた。するとこの夜、海中より素加神社へ、龍燈が飛びあがり、人々は奇異の感に打たれた。翌十七日、後室は無事安産し、男子出産であったため、康胤はじめ家臣一同おおいに喜び、安産礼祭を領村内に告げたといわれている(三代王・素加両社の縁起による)。
以後、戦乱の世になっても、祭事は熱心に継承された。
この七年祭は、二つの祭礼よりなりたち、初め磯出をし、後に御礼大祭を行うという順序であったが、これでは三山神社に礼を失するということで、大祭の後に磯出祭を執行するようになった。なお、これに先だって三山神社宮司が、大祭日選定のために、熱湯を浴びて卜定する「湯立祭」があった。また、馬加海岸に葉付の竹垣を結い、三山、武石、畑、馬加の神輿をその中に安置し、たらい柄杓を奉り、神酒赤飯をそなえ、ござを敷いて産室の古式を行う安産社祭(磯出祭)が形を整えたものになった。
江戸初期になると、徳川家康が関東を支配するようになり、この地方は渡辺綱重の所領となった。家康も慶長年間に、三山神社及び神宮寺に五〇石を寄進し、葵の紋章を許された。
享保年間から、祭式も七年に一度の大祭となり、天明年間に三山神社は寒川神社、二宮大明神、御山大神と総称されたが、明治以後、現在のように二宮神社とよばれるようになった。
明治二十三年九月、村内の衆議により、十一月の大祭を十五、六日の両日にしようとしたが、十六日のみの一日に決定した。以後、大祭は七年に一度、平安に執行されたが、大祭を行った年は常に豊年であったという。現在では幕張海岸も埋立造成地となり、磯出祭のよき風情を残すような環境も失われ、国道沿いの小さな空地で祭事が執行されている。
神輿の巡幸にいたっては、トラックで輸送するというような七年祭になっている。