漁村集落から発達した検見川町に鎮座する八坂神社には、俗に裸まつりとよばれる冬の祭事と、祇園まつりの系統を残すといわれる夏まつりがある。
裸まつりは、十二月三十一日大晦日(みそか)の除夜の鐘とともに、町内の若衆が、わらじをはき、腹に布、頭にはちまきを結んで、威勢よく元朝参りをする勇壮な神事である。この神事の起源は、元禄年間(江戸時代)からと伝承されているが、最も全盛をきわめたのは太平洋戦争末期のころであった。いかにも漁村にふさわしく、裸で元朝参りをするという漁師の勇ましい信仰のあらわれは、全盛期のころ、各町内ごとに群れをつくり、その数は二百名を越えるほどであった。現在では生活様式の変化などに伴い、三組程度(一組は五~一〇名位)になっている。
夏祭りは、八月一~三日の三日間を例祭日として行われる。夏の盛りの時期に悪疫の流行を防ぎ、産業の発展を祈願する目的があり、京都祇園まつりの系統をひく祭事である。明治末期までは、各町内ごとに山車をひき、祇園ばやしの音もゆかしく執行されていたといわれ、現在でも山車の部分品の一部が残されている。八坂神社の現在の夏祭りは、各町内の軒提灯が祇園もっこうにぼたんの花飾りであることと神輿の造りに祇園祭のゆかしい伝統をみることができるが、ます形の組棒に、四十数名が群がってかつぐ、豪快な神輿の渡御が、むしろその中心になっている。
これら二つの異種な祭事が八坂神社に残されていることは、この神社が、八坂様、稲荷様、修験道(熊野)を合祀していることに深い関係があるようである。また小正月の神事である備社の組合の構成も、検見川一丁目は八坂様、二丁目は稲荷様、三丁目は秋葉様(鷲神社)と分けられていることも、このこととの関連があると思われる。