4 伊勢講

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 霊山信仰ではなく、遠地の神仏を信仰し、数カ月の日数を費して参詣するものの中の代表的なのは、伊勢講である。

 嘉永五年(一八五二)千葉郡中野郷鎌田(現中野町)の農民、高橋卯兵衛の『伊勢参宮日記控帳』によれば、六月に千葉を出発し四〇日余りの日数を費している。そのコースの概要は、六月に千葉を出発、寒川宿から船で江戸へ、江戸からは中仙道を、熊谷、高崎、追分を経て長野善光寺に参詣、川中島から木曾路に入り、上松、妻籠、坂下、名古屋を経て津島より東海道を桑名、四日市、亀山、草津、三井寺参詣後、京都に宿泊、この間、千葉出発より、ちょうど二〇日間である。更に京都から大阪を経て奈良から松阪へ、そして二六日目に伊勢大神宮を参詣している。帰途は、二見ケ浦見物、津、名古屋を経て東海道から千葉へ帰着、六月一日に出発し、七月十二日に帰村している。この間の費用約十両二分余りの記録も認められる。

 これらのことから伊勢参詣は、善光寺参りや、京都・大阪などの上方地方の見物を兼ねたかなり大規模な旅であったこと、なかには四国の金比羅様まで足を延ばして代参する者もあったといわれている。

 参詣の目的は、一七歳から二〇歳くらいの男子の参詣が多かったことから、成人に仲間入りしたことを証明するため、代参することにあったようである。このため講中の人々は、代参する者に餞別金を贈ったり、出発には村境まで見送り、また代参した者は、みやげの御札をくばったり、連名で村内の神社仏閣に絵馬を奉納するなどの風習があった。

 しかし、このような遠地の信仰は、江戸中期が最も盛んであったようで、登拝を記念する碑などを調べても江戸年間の年号のものがたいへん多い。

 明治初期になると、急速に遠地の社寺を信仰する講組織がくずれ、参詣の旅も衰えた。以後、現在にいたるまで、個人的な参詣、あるいは単なるレジャー旅行へと、その内容がすっかり変革してきている。