坂東三十三カ所の観音霊場を参詣する札所参りは、観音講などともよばれ、市内の古い歴史をもつ農村地域に根強い信仰となって継承されてきた。市内には、花山天皇のころに定められた第二十九番札所、千葉寺があり、今でも農閑期になると巡礼姿の老人グループが札所参りをしている光景をみることがある。
講組織としても強い連帯感をもち、庶民の身近な民間信仰として、江戸時代から明治にかけ最も盛んであった。明治初年の札所参り道中記をみると、関東の札所だけでなく、遠く越後から出羽をめぐり、出羽三山登拝を兼ねて参詣の旅をしたことがわかる。一カ月以上の期間をかけて、関東から東北地方に至るというかなり広範囲な地域をまわる大規模な札所参りであったといえる。
また、房総の観音様を参詣する新坂東札所参りが江戸時代から行われていた。享和三年(一八〇三)、薗生村吉田久右衛門の道中記によれば、まず千葉より成田を経て、第二十八番札所滑河(なめがわ)観音を参詣し、佐原、鹿島、息栖、猿田から銚子の第二十七番札所飯沼観音に参詣している。
更に、飯岡、横芝、成東、東金、大網、本納、茂原を経て、第三十一番札所笠森観音、長南から第三十二番札所清水寺に参詣、御宿、勝浦、小湊、天津、清澄、前原(現鴨川市)、和田、第二十三番札所那古観音、(館山市)に参詣、勝山、鋸山、金谷、天神山、鹿野山、姉崎、五井などを道中として、巡礼したことが記録されている。